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うめ屋


ロイアイメインのテキストサイト 
by netzeth

嵐の夜のはなし。

通行禁止のバリケードと看板を見た瞬間、私は己の判断ミスを呪った。
イーストシティを流れる一番大きな河は今、ごうごうと水が唸りを上げている。降り続く雨に水かさが増し、とっくに警戒水位は越えていたのだ。そのために河の各所に架かる橋が通れなくなるのは、考えて見れば当然の帰結だった。
嵐がイーストシティを襲った夜、私はいかにも頼りなげな女物の傘一本で帰宅していた。もちろん強風の前に傘など何の役にも立たず、あっと間にボロ布と金属の残骸へと姿を変えてしまう。雨を避ける物もなく、全身濡れ鼠になりながらそれでも自宅へ向けて歩いていた私に突きつけられた最後通牒が、この橋の通行止めだった訳だ。橋を渡らなければ自分のアパルトマンには絶対に帰れない。ものすごく遠回りをすれば何とかなるかもしれないが、それはそんな事をしている間に夜は明けてしまうような距離だ。こんな事ならば司令部を出るべきでは無かった……と私はひどく後悔していた。
もっとも、私が司令部に残らなかったのには一応理由がある。司令部に泊まろうにも、そもそも私以上の帰宅困難者が多かったために司令部の仮眠室は満杯になってしまっていたのだ。嵐により公共の交通機関も全てストップしてしまった。そのため、乗り合いバスを使っている自宅が少し遠方の者は、皆司令部で夜を明かす事になった。比較的階級が上の私が残れば、必然的に私よりも下の者達が遠慮しなければいけなくなる。私の家は司令部から歩いて行ける距離だ。帰れない訳ではないのに、甘えて司令部の数少ないベッドを奪う訳にもいかなかった。
「適当なホテルにでも泊まるしかないかしら……」
災害対策用の部隊が築いた土嚢のバリケードを眺めながら、私はむなしく呟いていた。濡れてぺったりと身体にまとわりつく衣服が重い。これからホテルを探してこの荒天の中歩き回るのかと思うと、とても億劫だった。
とにかくまずは今夜の寝床の確保。そして最悪の場合は司令部に戻るしかないだろう。
そう気持ちを切り替えて私が橋を後にし、雨風が吹きすさぶ街中を歩いていた時の事だった。私の後方から走ってきた車が、私を追い抜く事数メートル先で動きを止めた。こんな雨の中、何か用事があるのだろうかと他人事の様に見ていた私の耳に飛び込んで来たのは、
「中尉!」
聞き慣れた男の声だった。
「大佐!?」
慌てて車に駆け寄ると、運転席に座っていた男が窓を開けてこちらを見ていた。つい先ほど司令部で別れたばかりの顔だ。
「一体どうされたのですか?」
もしかして、何かあって私を追って来たのだろうか。見れば車は彼の自家用車だ。大佐の家は司令部からは目と鼻の先だが、きっと朝から雨が降っていたので車で来ていたのだろう。
「……話は後だ。とにかく早く乗りたまえ」
彼は全身ずぶ濡れの私を足先から頭のてっぺんまで眺め回して、忌々しそうな口調で言った。私は何か彼が不快になるような事をしてしまったのだろうか。そんな不安を抱きながらも、とにかく言われた通り私は彼の車に乗り込んだ。



「それで、大佐。どうかなさったのですか? ご自宅にお帰りにはならなかったので?」
私の服はびっしょりと濡れていたので、当然車の座席も濡れてしまった。申し訳ないなと思ったが、口には出せなかった。大佐は何だかとても不機嫌そうで、それを言えば更に彼の機嫌を損ねてしまう気がしたのだ。代わりに私への用向きを尋ねてみる。
「どうかなさっているのは君の方だろう。こんな嵐の中、歩いて帰るなんてどうかしているぞ。見ろ、傘だって何の役にも立っていないじゃないか。それにこの辺りを歩いていたという事は、察するに河を渡れなかったのではないかね?」
大佐に指摘された事は全て図星だったので、私は恥じながらも彼に同意するしかない。
「その通りです。河を渡れなかったので引き返しまして、この辺りで宿でも探そうかと思っておりまし……」
「その必要はない」
話を途中で遮られて、私は言葉を飲み込んだ。驚いて運転席の大佐を見ると、彼は前を向いたまま淡々と告げてきた。
「このまま私の部屋に行く。今夜は私の部屋に泊まるといい」
まるで、今夜の夕食のメニューを決めるかの如くな気軽なテンションだ。私は訝しんだ。
私とて一応は妙齢の女性である。女として一人暮らしの男性の部屋に泊まる事に危機感を覚えない訳ではない。それを承知で彼はこんな提案をしているのだろうか。
じっと彼の横顔を見つめる。そこには、特に大きな感情の変化は見られない。ふと私は自分の考えすぎが、おかしくも恥ずかしくなった。
――彼も抱く女くらい選ぶだろう。
ただ、部下である女が嵐の夜に困っている様だから援助を申し出た――これはそういった類のただの親切だ。それ以上の意味などない。
そう結論を出した私は、彼の親切をありがたく受ける事にした。
「……申し訳ありません、大佐。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
「ああ。……また雨が強くなってきた。急ぐぞ」
彼はぶっきらぼうな返答をして、アクセルを強く踏み込んだ。



彼の自宅は高級フラットの二階の角部屋だ。来たことは何度かあったが、部屋に入るのはこれが初めての経験だ。
部屋に入って早々、私は彼にバスルームへと押し込められた。とにかく私は髪から服からびしょ濡れだったので無理も無い事だったが。ありがたくシャワーを借りさせて貰っていると、シャワーカーテンの向こうに気配をがした。一瞬、緊張に身体が強ばる。たった一枚の薄い布を隔てた先に異性が居ると思うと、無防備な姿でいる自分がひどく心細く感じた。
「中尉。タオルと服を置いておく」
それだけ告げると、大佐はすぐにバスルームを出ていった様だった。私は自分の滑稽さに辟易した。
勝手に勘ぐって緊張して馬鹿みたいだ。先ほども思った通り、彼だって相手をする女くらい選ぶだろう。誰彼かまわず欲情するような男性では無い事を、一番知っているのは自分ではないか。まして、ただ親切を施すだけの女を相手にするような面倒な事はする訳がない。
何だか意気消沈した気分なのは、己に嫌気がさしているせいか、それとも、女としての自尊心をひどく傷つけられているせいか。
「……もう、調子が狂うわ……」
前者だと勝手に結論づけて、私は流れ出る熱いシャワーを止めた。



大佐が私のために用意してくれた服は、彼のパジャマの様だった。男ものなので当然ながらサイズが合わない。試しに袖を通してみるとやはり大きく、そしてそれは私を妙に落ち着かない気分にさせた。腕の長さも肩幅の大きさも女の私とはこんなにも違う。大佐の体の大きさと彼が男だということを意識してしまい、私は慌てて己のバカな思考を止めた。それは今ここでは考えない方が良いことだ。
長すぎる袖とズボンの裾を折り曲げて何とかそれを着こなすと、私はバスルームを出る。これまた用意されていたルームシューズを履いて、リビングへと顔を出すとちょうどキッチン方向から大佐がやって来る所だった。彼も既にラフな部屋着に着替えていた。両手には飲み物が入っているらしいカップを持っている。
「ああ、中尉。出た…か……」
彼の語尾は私の姿を目にして、何故か掠れがちになる。大佐にしては珍しい呆然と……いや、ぽかんとした間抜けな顔で私を見ていた。
「あの……何か?」
「い、いや……」
降ろした髪をタオルで拭きながら尋ねると、彼は慌てた様子で視線を逸らした。何だか耳と頬の辺りが赤い気がするけれど、どうしたのだろうか。
「大佐?」
「……何でもないよ。それより、コーヒーを淹れたんだ。もう寝るだけだから、ミルクをたっぷり目にしてある」
何だか誤魔化すように大佐は笑うと、持っていたマグカップを私に渡してくれた。それはたっぷりと湯気が立ち上り暖かな色をしていた。早速ありがたく頂戴する事にする。普段あまり飲まない本格的なコーヒーの香りが鼻から抜ける。けれど、舌に残るのは優しいミルクの味だ。
「……美味しいです。ありがとうございます。とても、暖まります」
身体だけでなく心までほっこりと暖かくなる味に、自然と笑みがこぼれる。いつもは紅茶の方が好みだが、今夜はコーヒーの香りがとても私を安心させた。大佐にこうやってコーヒーを淹れて貰うなんて、いいえ、それだけじゃない。シャワーを浴びろと急かされたり、タオルや着替えを用意して貰ったりするなんて、まるでいつもとは立場が逆転したみたいでおかしく思う。大佐の世話を焼くのが私の仕事だったはずなのに。専売特許をとられた気分だが、それはちっとも残念な気分ではなかった。
「気に入って貰えたようならば……良かった」
またも大佐は余所余所しく私から視線を外しながら、答えてくる。先ほどから一体何なのだろう。気にはなったが私は詮索をしようとは思わなかった。彼だって他人が自分の部屋に居てこれから一夜を共にする(微妙な言い回しだが)というのなら、家主としてそれなりに気を使うだろうし、緊張もするだろう。私と大佐は昔同じ屋根の下で暮らしていた経験があるのだから、何を今更という気がするけれど。
「では、そろそろ休もうか。今夜の雨のせいで少なからず明日は朝から忙しくなるだろう」
「そうですね。対策は十分に取ってありますが……何があるか分かりませんし……休める時に休んでおいた方が良いですね」
彼の言葉を受けて、私は窓へと視線を向けた。降り続く大量の雨が荒れ狂う風に乗りガラスに叩きつけられている。この分では一晩中降り続くだろう。静かな夜――とは言い難い状況だが、何かあれば私達も司令部へ呼び戻される事になる。今のうちに出来るだけ寝て体を休めておくにこした事はない。大佐に同意した私は頷くと、立ち上がった。そして尋ねる。
「それでは……どちらで休めばよろしいでしょうか」
「ああ、こっちだ」
案内されたのは、リビングのすぐ隣の部屋だった。彼に続いて中に入ると、室内の様子が目に飛び込んでくる。シンプルなベッドがポンと置かれた部屋だ。クローゼットとタンスがあり、特に目立った所もないいわゆる普通の寝室である。だが、また私を妙な落ち着かない気分が襲ってきて、私は内心首を傾げた。
「シーツは一応新しくしておいた。枕は柔らかめだが大丈夫か?」
「お気遣いありがとうございます。枕の質の違いで睡眠に支障はきたしませんので、ご心配なく。……これでも軍人ですから」
「……違いない」
枕が変わって眠れなくなるような神経質な人間では軍人など勤まらないだろう。戦場で銃を支えにし、立って眠った経験もある私に対してそれは愚問だ。まあ彼もそれは百も承知の上で、礼儀として尋ねてくれただけだろうが。
それよりも私が問題にしていたのは、この部屋の妙に落ち着かない空気だ。それに先ほどから気になっている疑問がある。
「……あの、大佐」
「何だ?」
「こちらの部屋は……ゲストルームなのですか?」
そうなのだ。
大佐が私に泊まっていけ、と言った時、私は当然ながら大佐の家にはゲストルームがあり、客用のベッドがあるのだろうと勝手に想像していたのだけども。通されたこの部屋はゲストルームというよりは。
「いいや? ここは私の寝室だが」
大佐の寝室そのものにしか見えなかった。……やはり、そうだったらしい。
「では、私がこちらの部屋を借りてしまったなら貴方はどこでお眠りになるのですか」
「私は居間のソファーで十分だよ。なあに、心配ない。よく面倒でそこで寝てしまう事があるから、いつもの事だ」
軽い口調で彼は言うが、はいそうですかとすぐに納得する訳にはいかない。
「……大佐をソファーに寝かせて、私がベッドで眠れる訳がないでしょう」
しかも、彼のベッドを奪ってだ。そんな事をしておいて安眠など出来る訳がない。
「私がソファーで寝ます」
宣言するように私が言うと彼は渋い顔をした。
「……客人を、まして女性をソファーなどで寝かせられるか」
「ですがっ」
「ダメだ。君がベッド。私はソファーだ」
大佐はがんとして意見を曲げる気は無いようだ。男としてそこは彼の譲れない部分らしい。しかし、私だって部下として譲れない。
「で、では……っ、それなら……」
一緒に。
興奮した私はとんでもない言葉を口にしようとして、危うい所で飲み込んでいた。確かに今の状況ではそれが一番の解決法な気がしたが、いくら何でもそれは女性として一般常識を疑われる所だ。大佐だってただの部下の女に同衾を強請られても困るだろう。
「それなら?」
「いえ。……とにかく、大佐がソファーでお休みになるというのなら、私はこのベッドで眠る訳にはいきません」
話は最初に戻る、堂々巡りとなる。すると、こうなる事は先刻承知だったという体で、大佐は苦笑をその顔に浮かべ肩をすくめた。
「……君ならそう言うと思っていたよ。我々の間で意見がぶつかる事も想定していた。だから、残念ながら、折衷案として居間のソファーをベッドに錬成する用意がある。材料が足りないから簡易錬成だが、だいぶましなものになるだろう」
大佐の言葉に私はホッとした。ソファーをベッドにするというのならば、私がこれ以上強情を張る必要はない。心おきなく彼の気遣いを受けられる。
「キチンとしたベッドに出来るのですか?」
「ああ。少なくとも、軍に置いてあるベッドよりはマシなものがね」
片目を瞑って請け負う彼に、私は胸をなで下ろした。仮眠室にあるベッドほどのクオリティがあるならば十分だ。
「……それならば、お言葉に甘えさせて頂きまして私は大佐のベッドをお借りします」
「ああ、そうしてくれ」
「ところで、大佐」
「何だね?」
問題が無事に解決したところで、私は先ほどから気になっていた事を口にする。
「……何が残念、なのですか?」
「……さあ、何だろうね」
人を煙に巻くように大佐は曖昧に言葉を濁す。私には彼の考えがさっぱり読めなかった。私と一緒に寝るなんていう事態にならなくて、彼は良かったと思っているのではないのか。
「それよりも、早く休もう。私もこれからベッドを錬成してすぐに寝るから」
「……そうですね」
大佐に促されて、若干すっきりしない気分ながらも私はベッドに入る事にする。ルームシューズを脱ぐとシーツをめくった。真新しい真っ白なそれからは、洗剤の香りともう一つ別の香りがした。ベッドに横になろうとしていた私は、そこでようやく気づいた。
「ああ、分かりました」
思わず口に出してしまうと、部屋から出ていこうとしていた大佐が何事かと振り返る。疑問を乗せたその視線に私は答えた。
「こちらに伺ってからずっと、私、落ち着かない気分で……何故だが不思議だったのですが、その理由が分かりました。……匂いです」
「臭い?……私の部屋はそんなに臭うかね」
顔を顰めると、彼はふんふんと自分の体に鼻を近づけて匂いを嗅ぐ仕草をした。体臭が気になるのだろう。
「ええ。このパジャマも、部屋も、ベッドも。全部大佐の匂いがするんです。だから落ち着かなかったんですね。あ、いやな匂いじゃないんです。いえ、むしろ、好きな香りですよ、ご安心ください」
私は気を使って言ったつもりだったのだけれど、大佐はものすごく複雑そうな微妙な顔をした。例えるならばご馳走を前にしてマテをされている子犬みたいな。
「……好きな香りがして、落ち着かない……ね。君は私の今夜の決意を覆す気かね?」
「え?」
「出来れば、最後まで紳士でいさせてくれたまえ」
意味不明な言葉を発し、彼は困ったように頭を掻くと笑ったのだった。



END
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by netzeth | 2014-07-13 17:44