うめ屋


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by netzeth
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崖の上の花

【ケイン・フュリー】

「ホークアイ中尉って誰か好きな人がいるんですかね……」
平和な昼下がり、僕が思わずポロリと落とした台詞はその場に居た皆に波紋を投げかけたようだった。皆――ハボック少尉、ブレダ少尉、そしてファルマン准尉はぴたりとその場で動きを止めると、顔を見合わせる。それからぞろぞろと移動して来て、僕は彼らに取り囲まれた。
「とりあえず聞いとくわ。……おまえ、中尉が好きなのか?」
ハボック少尉が僕の首に長い腕を回しながら尋ねてきた。まるでヘッドロックをかけられているような体勢で苦しかったけれど、我慢して僕は返答をする。
「ま、まさかっ、違いますよ! そりゃあ、中尉はお綺麗だと思いますけどただそれだけで……」
「本当かあ?」
「ほ、本当です。中尉は僕なんかには手の届かない人と言いますか……ほら、崖の上にいくらとても綺麗な花が咲いていたとしても無理して取りに行こうとはしないでしょう? ただ綺麗だなあと見ていたいだけというか……」
「ふむ。曹長は崖の上の花を綺麗だなあと見ていたいタイプなのですな。曹長らしいですね」
ファルマン准尉は僕の例え話に納得したように頷いてくれた。けれど、ハボック少尉とブレダ少尉はまだ疑い深い顔をして僕を見ている。
「じゃあ何でお前、ホークアイ中尉の好きな男が知りたいんだよ」
「だな。レベッカ辺りならともかく、機械いじりバカなお前さんが他人のゴシップ話に興味があるよーには思えないんだが」
両少尉に指摘されて、僕はどう答えようか悩んでしまった。確かに僕の趣味は自分で作った広域帯受信機でいろんな電波を拾うこと――というかなりマイナーで暗いものだけど……まあ、この際それは置いとこう。
「それは……」
僕は脳内で答えを模索しながら、とある過去の出来事を思い出していた。



まずは僕がその場面に遭遇したのは偶然だったことを申告しておく。決して盗み見をするつもりなんてなかった。僕がその日司令部の中庭の人気が無い区画に居たのは、新しく組み立てた電波受信機の調子を見たかったからだ。司令部内はいろんな電波が飛び交っているから実験の場としてはうってつけだったし、人気が無い場所を選んだのは無許可で軍の電波を拾うのが後ろめたかったから。
受信機の調子は上々で僕はとっても上機嫌だった。だから、不意打ちでその光景にぶち当たってしまった時、かなり慌てたんだ。
「好きなんです! 良かったら俺とつき合ってください!」
僕の目の前には二人の男女が居た。一人は僕も良く知っている同僚。同じ技術兵の同期でマルコっていう赤毛の男だ。彼は顔を真っ赤にして、目の前に立つ女性に告白をしていた。
「……あなたの気持ちは嬉しいけど、ゴメンなさい」
マルコに交際を断る際のお決まりの文句を素っ気なく告げたのは、これまた僕が良く知る人物だった。きらきらと輝く金色の髪をすっきりとまとめ上げた綺麗な女性――ホークアイ中尉だ。いつも無表情の中尉だけど今日ばかりは少し困った顔をしていた。眉尻が下がって、少し顰められている。
「わ、分かりました! すみません、困らせてしまって! 今日の事は忘れて下さい! 失礼しました!!」
フられたマルコは分かり易く肩を落としていたけど、傍目にも無理しているのが丸わかりな笑顔を浮かべていた。中尉に気を遣っているのだろう。半分泣きそうな顔で笑っているのを見て、僕は同じ男としてマルコに同情したのかもしれない。
マルコが走り去っていったのを見届けた後、僕はたまらず中尉の前に飛び出していた。
「中尉! マルコはいい奴なんです! マルコのどこがダメなんですか!?」
突然現れた僕に中尉は驚いていた。目を見開いたとても普段なら見ることは叶わない珍しい表情。だけど、僕はそれに気づいている気持ちの余裕も無かった。
――どうして僕はマルコのためにこんなに一生懸命になっているのだろう。
とは思いつつも、僕はどうしようもなく憤っていた。きっと僕はマルコに自分を重ねて見ていたのかもしれない。
「理由くらい教えて下さい!」
せっかく勇気を振り絞って告白したのに、ゴメンナサイの一言で全て終わりだなんて可哀想過ぎる。自分がフられた理由くらい誰だって知りたいはずだ。それが納得のいく理由だったのならば、人はなら仕方がないと納得して自分を慰める事ができる。そうやって失恋の痛手を乗り越える事ができる。マルコに成り代わって僕が……と僕は中尉に詰め寄っていた。今思えば何て不躾で、傲慢な事をしたんだと反省している。でも、この時はただ夢中だった。
「彼がダメなんじゃないわ。ダメなのは私よ」
「え?」
僕の失礼な言動を咎めもせず、中尉は毅然としたいつもの口調で教えてくれた。
「私に恋をしている余裕がないの。ただ、それだけ」
僕は中尉の鳶色の瞳を見つめた。その色はどこまでも真剣だった。嘘やその場だけの誤魔化しを口にしている訳じゃないことは理解出来た。
「彼のように真っ直ぐに自分の気持ちをぶつけられる強さが、私には羨ましいわ」
すっと目を細めた中尉は、マルコが去っていった方角を見ている。ううん、違う。多分中尉が見ているのはもっと別の誰かだ。その時の僕は直感した。中尉がマルコをフったのは自分に余裕がないから。恋をするだけの余裕がないから。それはきっと本当だ。中尉は嘘を吐く人じゃない。だけどそれが全ての理由って訳でもないと思った。
――中尉にはきっともう好きな人が居るんだ……。
ぼんやりと僕はそんなことを思った。それが分かってしまったのならば、もう僕には何も言うことは出来なかった。マルコのために僕がしてやれることは、後はもう一緒にやけ酒にでも付き合ってやることくらいだ。だから僕は中尉に失礼を詫びてその場を後にしたのだけど。ただどうしても、この美しい人の心をこんなにも捕らえて離さぬ相手が気になって仕方がなかった。



「という訳で、皆さん驚かれるでしょうけど……何とホークアイ中尉には好きな人が居るようなんです! それで、とっても僕、気になって気になって……」
三人の僕よりも大きな男達(ついでに言えば階級も上だ)にしどろもどろになりながら、説明した。僕の話を聞いて彼らはまたお互いに顔を見合わせている。やがて、三人を代表してブレダ少尉が頭を掻きながら口を開いた。
「あのなあ、フュリー。……それ、俺らの前以外で言うなよ?」
「も、もちろんです! 僕はそんなに口の軽い男じゃありませんよ! 皆さんに打ち明けたのも、チームマスタングの一員として信頼しているからです!」
皆の心配も分かったので、僕は大きく頷いた。僕達チームマスタングの絆は固いものだ。だから同じチームの一員である中尉のゴシップを心配し、過敏になっているのだろう。僕は端からチーム外の人間にこの事を話すつもりは無い。そう、チーム外の人間には。そこで、僕は名案を思いついてあっと思わず声を上げてしまった。
「そうだ。大佐に相談してみましょうか? 女性のことを一番良く理解しておられる大佐ですから、きっとホークアイ中尉の好きな人のことも心当たりがあるかもしれませんよ!」
優秀な補佐官であるホークアイ中尉は大佐には無くてはならない人だ。チームマスタングのボスとして、大佐もホークアイ中尉の好きな人のことは気になるだろうしきっと把握しておきたいに違いない。そう思った。
だけど。
自信を持って皆に提案した僕だけれども、三人の反応は芳しくなかった。それぞれ微妙な顔をして、何と言うべきか言葉を探しているような表情をしている。
「あのう……僕、何かマズイこと言いました?」
「うん。……とりあえず、お前は黙っとけ。何も言うな、な? これ、上官命令な」
「へ!?」
突然の一方的な命令に僕は驚いてしまう。だっておかしい。僕は別に誰彼かまわず話すと言っている訳じゃないのに。大佐は信頼出来る僕らのボスだ。その大佐に相談するのが、そんなにマズイ事なんだろうか。そのまま疑問を口に出すと、三人は呆れ果てたような顔をして声を揃えて言った。
「そうだ、マズイ。激烈にマズイ。大佐には絶対に言うなよ」
「だからどうしてですか!?」
訳が分からず問いただしても、三人は微妙に視線を逸らして。結局誰も僕の疑問に答えてはくれなかったのだった。




【ハイマンス・ブレダ】

司令官執務室に名指しでお呼びだし……というと、大抵の奴なら何かやらかしたんじゃないかとビビるもんだ。実際同期のヒヨコ頭は呼び出されるとヤベっ、また報告書の落書き消し忘れて提出しちまったのかなと焦った顔をする。まあ、焦っても別にたいして反省しないとこがこいつのマズイとこなのだが。だが、俺に限ってはそんなアホな心配はない。むしろ我らがボス――ロイ・マスタング大佐から直々にお呼びがかかるのは、俺にとっては楽しい時間の始まりだったりするのだ。
「来たか。ブレダ、待っていたぞ」
俺が入室すると、大佐はもう応接用のソファーに腰掛けて準備万端で待っていた。テーブルの上にはチェス板と白黒の駒。
「今日は勝たせてもらうからな」
ウキウキとした顔で宣言する大佐に、俺は苦笑した。
「ええ。せいぜい楽しませて下さいよ」
「言ったな? 腕が鳴るな」
俺の不敵とも言える言葉を受けて、大佐は口角を吊り上げた。この白黒の遊戯がたいそう好きな大佐は、純粋に今から始まる勝負を楽しみにしているようだ。俺も大佐とチェスを打つ時間を気に入っている。他のお偉方と違って大佐はコテンパンにのしても、階級に任せて怒鳴り散らしたりしないからな。むしろ、手加減した方が不機嫌になるくらいだ。まあ、大佐は手加減しなくてはいけないほど弱くはなく、俺にとっては油断出来ない好敵手なのだが。
「お前は黒、私は白だ。先手はくれてやる」
「いいんですかい? 後悔しますよ」
この東方司令部で俺とハンデ無しに打てる相手はそうそういない。これまた時々お呼びがかかるグラマン中将くらいだろうか。脳裏に幾つもの手を思い浮かべながら俺は最初の駒を動かした。すかさず大佐が次の手を打ってくる。
「お、やりますね……」
好勝負の予感に俺は思わず舌なめずりをした。
こんななりをしているが、俺には体を動かすよりもこうやって頭を使う方が心地良い。昔から、戦史を研究して戦略と戦術を練るのが得意だった。軍に入ったのも、その特技を生かせると思ったからだ。だが、理想と現実が往々にして違っているのはよくある話だ。士官学校を首席で卒業した俺を待っていたのは華々しい出世街道ではなく、頭の固い老害達のお守りだった。事件の際俺がどんな作戦を提案しても、彼らはそれを採用してはくれなかった。それが部下の犠牲も市民の犠牲も最小限で済むベストの選択肢だというのに、彼らは目先の出世と自分の利益を常に優先していた。
「今日の私はひと味違うぞ?」
ルークを移動させながら、大佐が楽しげに言う。
そんな空しさと己の無力さに打ちひしがれていた俺の前に現れたのが、この男だった。正に焔のような激しさでこの司令部の改革を行った大佐は、作戦室でくすぶっていた俺を取り立ててくれた。そして、こう言ったのだ。お前の好きなように作戦を立てていい。私はお前を信頼してその作戦を実行しよう。失敗した時のことは考えるな常に大胆に強欲に最上を目指す作戦を立案しろ。責任は私が引き受ける。責任を取るのが上の仕事だからな。お前はただ司令部の頭脳であれ。
俺は感動した。今まで俺が見てきた上官というのは、基本的にいかに失敗した時の責任逃れをするかしか考えていなかった。自分の立場の心配しかしていなかったのだ。大佐は俺が初めて会った、理想の軍人だった。
まあ、思えばそれがいけなかったのかもしれないな。最初にあまりに人間的に惚れこんじまったもんだから、その他の欠点がどうでも良くなっちまったのは問題だった。
「これでどうだ?」
実はかなり子供っぽくて短気なとことか、我慢が苦手ですぐに前線に出てくるとことか、慎重なようでいて詰めが甘いとことか、冷酷になりきれず優しすぎる所とか。軍の頂点を目指そうという男として、これはどうかと思う欠点部分を俺らでまあフォローすればいいかという気にさせられてしまったのだ。要らぬ苦労を背負い込んだ気もしないではないが、それもまた楽しむのが俺流の人生哲学だ。
「おっと、これは強い手ですね」
板上の攻防はいつの間にか俺の劣勢に傾いている。大佐は考え事をしながら片手間に勝負出来る相手ではないようだ。舐めてかかったお詫びに、俺は全力を持ってお相手をすることに決めた。
「……ところで、大佐。少し前に中尉が下士官に愛の告白されたのをご存じで?」
勝負ごとで最も大事なのは人心を掌握することだ。俺は大佐にジャブを放つ。そう、すなわち心理的に揺さぶりをかけること。大佐の欠点の一つ――女癖が悪いくせに、実は本命の女には弱い。という部分を最大限に利用させて貰うことにする。
「……初耳だ」
案の定大佐は俺の話題に乗ってきた。平静を装ってはいるが、動揺が表情に現れている。大佐もまだまだである。
俺は内心苦笑した。
――この人は意識的な女たらしで、無意識の人たらしなんだよなあ……。
俺もハボもファルマンもフュリーも大佐の青臭い理想にひかれて、付いていこうと決めた。どんなに無茶苦茶な夢でもこの人なら実現させてしまうかもしれない。そんな何かが大佐にはあった。参謀である俺には無い、人を惹きつける、カリスマ。
「中尉はお綺麗ですからね。例え険しい崖の上の花だろうと、無謀にも登って手折ろうとする輩は要るってことですかね」
後輩が例えていた話を持ち出して、俺は大佐を煽った。
俺は参謀、かっこよく言えば軍師。それが俺に貸せられた役割って奴だ。俺にはカリスマ性はない。それは生まれ持っての性質。
その性質故に、俺は崖の上の花を取るために崖を登ったりはしないだろう。無謀であることは参謀にとっては罪だ。リスクとリターンを天秤にかけて挑戦に値する勝率を叩き出せなければ、実行しない。冷徹に成功率を計算し、1パーセントでもそれを上げること。それが参謀の役割。俺はきっと何パターンも崖を登る算段を考えても実行はせず、その中でもっとも成功率の高い方策を考え出した所で、満足してしまうのだろう。どんなに花が欲しくとも、おそらく崖を登るのは他の誰かに任せるのだ。
「……そうか」
ナイトを動かした俺は大佐の顔色を伺った。眉間に皺を刻み口がへの字に曲がった、むっつりとした顔。俺に詳細を聞きたくて仕方がないのを、必死に我慢しているって表情だ。あまりにも分かり易くそして可愛らしい我が上司殿に、笑いがこみ上げるのを俺は堪えた。しかし、我慢が効かずついついからかってしまう。
「勝負は優勢だというのに、ずいぶんと渋い顔をしてますね。大佐」
「うるさい」
短い台詞で俺を黙らせるのは、苛ついている証拠だ。大佐は焦ると口数が少なくなる。逆に調子に乗るとペラペラと口が滑らかに動く、そういうタイプだ。多分、どうでもいい女にはペラペラとどうでもいいお世辞を言えるのに、本命の女には愛の言葉一つ言えないのではないだろうか。
「黙れ、勝負に集中しろ。手加減したら、許さんからな。私はお前の知謀を高く買っているんだ。がっかりさせるなよ」
「……イエス・サー」
おやおや、大佐は俺が意図的にこの話題を出したことに気づいていたようだ。気づいていながらも、結局踊らされて動揺し、だがそれでも手心を加えるなと釘を指してくるこの負けず嫌い。
――本当に人間的に魅力の尽きない人である。
「大佐」
「何だ」
俺は思わず心の思い浮かんできたことがあって、特い深く考えることなくそれを口に出していた。
「大佐って、過去に青臭い夢でもうっかり語って幼気な若者の人生変えたこととかありません?」
これだけの人たらしならば、誰かの人生の一つや二つ、狂わせてそうだとふと思った訳なのだが。
「「あ」」
俺の言葉に大佐は額に汗を浮かべて、持っていた駒を盛大に置き間違えたのだった。



【ヴァトー・ファルマン】

趣味はと聞かれたので百科事典を暗記すること――と正直に答えた所、地味だと女性に笑われた。そんな自他共に認める地味男な私であるが、仕事はこう見えて軍人であり、東方司令部において一番派手な男の部下をしていたりする。ついでに東方司令部で一番麗しく強くそれ故名を馳せる女性の部下でもある。つまり、派手な男と有名な女。その上司部下コンビに近しい位置に居るのだ。
「なあ、お前あのマスタング大佐とホークアイ中尉のとこの直属なんだろ? あの二人ってどうなんだ?」
そうなると必然的にじみーに生きている私も注目を浴び、以上の様な質問を至る所で投げかけられるようになる。それに対する私の答えはいつも同じだ。もうお二方の部下となり働いて長いが、それ以外に答えようがない。これは偽り無き真実である。


二人は恋人同士か? 答えは否。
二人は恋人同士ではなくとも男女の深い仲か? 答えは否。


私の答えを聞くと、ほとんどの人間はなーんだ、つまらない。と一言感想を述べて、この件に対する興味を無くす。真面目に見える性格が幸いしてか、皆、私が嘘を吐いているとは思わないようなのだ。ファルマンが言うならそうなんだろうな、と皆妙な納得をして去っていく。
確かにこの件に関して私は嘘は吐いていない。偽り無き真実のみを話している。だが、真実しか話さないことと、真実を包み隠さず全て話すことは当然違う。私は聞かれたことに対して嘘は吐いていないが、聞かれないことまで親切にペラペラ話してやってはいない――というだけのこと。いくら私でも話して良い知識とそうでないものは区別をつけるのだ。



あれは、そう。何かの事件後、私の持つ法律関係の知識の助けを借りたいと中尉に要請されて二人で残業をしていた時のことだった。
私は地味に見えるが別に無口という訳ではなく、むしろ自分の知識を人に分け与えたいという欲求を常に抱えている。それ故、何かに付けて知識を垂れ流してしまう悪癖がある。だが、このように事件の報告書を作成する時などはそれは逆に重宝されるのだ。
「ありがとう、ファルマン准尉。准尉のおかげで完璧な報告書を提出出来そうよ」
「いえ、ホークアイ中尉。お役に立てたならば幸いです」
輝く金色の髪と鳶色の瞳をした美しい女性が、私を見上げて僅かに微笑む。普段滅多に見ることの叶わない、ホークアイ中尉の稀少な笑みである。眼福に預かりながら自慢の記憶力でその顔を脳裏に刻みつけた。幾ら我らがボスの想い人だろうと、これくらいの役得くらい許されるだろう。
二人きりで残業した挙げ句微笑まれたなどと知られようものならば燃やされそうだな、と私は密かに苦笑しながらボス――マスタング大佐の顔を思い浮かべた。
彼がホークアイ中尉をずっと憎からず想っていることは、私達チームマスタングの間では自明のことだ。知らないのは純真なフュリー曹長くらいだろう。何しろちょっとホークアイ中尉と親しく話したり、彼女を飲み会に誘ったりするとすぐ不機嫌になるのだから非常に分かりやすい。だが、その分かり易さは我々チームマスタング限定で発揮されるものであり、外部の人間に対しては完璧に上司と部下を演じ分けているのだから、大佐もなかなか人心掌握に長けている。つまり、我々は常に信頼していると大佐に言われているようなものなのだ。彼はこれを無意識でやっているのだから始末に終えない。ブレダ少尉などはよく人たらしめ……とボヤいていたりする。
しかし。
この分かり易い大佐の好意も、肝心の中尉には伝わっていないようで。
「何かお礼をしないといけないわね。この後は時間空いているかしら? 食事をご馳走するわ」
平気で独身フリーの男にこういう事を言うのだから、ホークアイ中尉も罪作りな女性である。まあ、百パーセント部下としてしか見られていないのも自明なので私もいちいち動揺しないが。
「いいえ、中尉。お礼何てとんでもない。私は当然の仕事をしたまでです。それに、この後は少々野暮用がありまして……」
当然ながら私はやんわりと断りを入れる。これ以上を望んでしまえば、確実に炭焼きコースだからだ。私には上司の想い人とデートをする勇気はない。
それに。
百パーセントフられると分かっている恋をする気も起きないのだ。
「そう。それは残念だわ」
あっさりと引き下がった中尉の表情は、相変わらず淡々としており容易にその感情は読めない。先ほどのように微笑みを見せるのは例外中の例外なのだ。だが、私には分かる。この目で見た全ての言葉を、映像を、事象を。全て脳裏に記憶する私には、分かっている。
ホークアイ中尉はマスタング大佐を憎からず想っている、大佐と同じように。お二人の過去は知らないが、これまでの二人のやりとり、行動、その全てが物語っている。二人には何かあったと。
その何かは私には分からないし、詮索するような無粋な真似をする気もない。だが、彼らの恋の行方に興味を持っていることは否定出来ない。
私はそこで、ほんの少し前に後輩が恋を例えていた話を思い出していた。

険しい崖の上に凛と咲く美しき一輪の花。それを欲するか否か? 

後輩はただ、綺麗だなと眺めていたいと言った。
私はきっと、花を手に入れることよりも、花そのものに興味を持つのだろう。その花の名を、生態を、見頃はいつか、いつ枯れるのか、誰に手折られ、どのように咲き誇るのか。それを知りたい。それが知識を欲するどうしようも無い己の性だ。
それを自覚し私は内心嘆息しながらも、気がつけばホークアイ中尉に提案していた。
「ではお礼代わりに……と申しますか。少々簡単なテストなどに付き合って頂けませんか?」
「テスト?」
「ええ。少し前に読みました書物にありました、簡単な心理テストなのですが。いろいろな方の答えを聞いた方が興味深いので」
「准尉らしいわね。……分かったわ」
ホークアイ中尉は私の言葉を特に疑問も持たず頷いてくれたので、私は満を持して崖の上の花の話をしてみる。


切り立った崖の上にある花。貴方にとって、とてもとても魅力的でどうしても欲しいと思う花。貴方ならどうしますか?


質問を聞いた瞬間、中尉のポーカーフェイスが僅かに崩れた。彼女は眉間に皺を寄せ少し難しい顔をしている。頭の良い女性だから、これが何を例えている話か、悟ったのかもしれない。私はじっと中尉を見つめて、彼女が何を考えているか想像の翼を広げてみる。当たり前だが私は中尉ではないので、その全ては分からない。ただ、迷っているのだろうということだけがうっすら伝わってくる。
「そう、ね……、私ならば何もしない、かしら」
やがて中尉はおもむろに口を開いた。
「おや、何もしないで諦めるので?」
「ええ、そうね。もしも何か行動を起こして、マイナスな事態になっては困るもの」
「それは、崖を登っている途中に落ちたり、それで怪我をしてしまったり、とそういう事ですか? ホークアイ中尉はずいぶんと弱気ですね。リスクを恐れていては欲しいものは得られないと思われますが」
私の挑発的な指摘にも、中尉は動じない。ただ、苦笑するように口元が歪んだ。
「確かに弱気ね。でも、じゃあもしも花を手に入れることが出来たとしても、それからどうするの? 手折った花はきっとすぐに枯れてしまうのよ。……そんなのは悲しいわ」
だったら、初めから手に入れようと思わなければいい。
淡々と語る中尉には相変わらず感情の色は見えない。彼女の言葉を聞き、私はなるほど、と思う。
男は目の前の花を手に入れることしか考えない。しかし女性である中尉は手に入れた後の心配をするのだ。
考えてみれば当然の話だ。一瞬の喜びよりも、その先の未来の成功を望む。それが彼女の結論なのだろう。
だが、私は他ならぬ彼女自身のために彼女の理論を崩す反論をした。
「手折った花がすぐに枯れてしまうというのならば、花瓶に砂糖水でも入れて生けてやればいいのです。甘くすればするほど、花は長持ちするでしょう」
「そんなのはその場しのぎに過ぎないわ。……花はいつか枯れてしまう」
ホークアイ中尉はどうしても、花を枯らすのが嫌だという。それが、彼女の気持ちを明確に表してしまっている事に気づいているのか。私は微笑んだ。
「……それは持ち主の努力次第ですよ。中尉。手折って枯れるというのならば、いっそ根っこごと引っこ抜いてくればいい。そして、より良い土に埋めてやるのです。時間はかかりますが、いつか必ず根付いてまた綺麗な花を咲かせることでしょう。水やりを忘れずに。丁寧に丁寧に手入れをしてやれば良いのですよ。そういうマメな仕事は誰かさんと違って中尉は得意でしょう?」
片目を瞑って(普段から瞑っていると言われているような細い目だが)やると、中尉はまたも非常に珍しい顔を見せてくれた。すなわち、ほんのりと赤く染まる頬と耳を。
「……ファルマン准尉」
「はい」
「……ただの架空の花の話よ」
「そうでしたね」
お答え頂きありがとうございました。非常に参考になりました。と澄まし顔で礼を述べれば、中尉は少し不本意そうな顔をしていた。おそらく、自分の気持ちを吐露させられたことを不覚に思っているのだろう。
そして、その鋭い鷹の目の眼光を今だけは緩めて、中尉は私に言った。
「……准尉」
「はい」
「……もしも…もしもいつか私が花の育て方に迷ったら相談に乗って頂戴」
「喜んで」
こんな些細な事がきっかけでも、彼女に少しでも心境の変化があったというならば、それはめでたい話だ。私は彼と彼女の幸福に少しでも寄与出来たのだろうか。
私は思う。
未だに私は彼女と彼の全ての真実を知り得ることはなく、彼女がこの話で具体的に何をどう思いどう行動するのかも未知数だ。だが、確かに言える事がある。


二人は恋人同士か? 答えは否。
二人は恋人同士ではなくとも男女の深い仲か? 答えは否。

二人はお互いを大切に想っているか?
……私はこの答えにだけはどうしても否と答えることは出来ない。


彼らの忠義と愛情に境界線を引くことは出来ず、恋情と愛情の差はさらに微妙だ。
願わくば。
彼女が抱いた想いが、彼の欲するものであるように。お互いがお互いの幸福を分かちあえるそんな関係になれるように。
司令部一の地味な特技と趣味を持つこの私が願うのは、司令部一派手な男と司令部一美しく強く有名な女の幸せなのである。



【ジャン・ハボック】

上司に頼み込んで夜勤シフトを変更して貰い、はりきってデートに出かけた俺が司令部に戻って来たのは、それから一時間も経っていない時刻だった。彼女に渡すはずだったドデカい花束を肩に担いで俺は司令部内を歩く。ずっしりと肩に重く感じるそれと無駄に香る花のいい匂いが、俺の心の傷をえぐる。すれ違う顔見知りの同僚達から送られるまたフられたのか……という事情を察した哀れみの視線が痛かった。
「ジャン・ハボック少尉、無念の帰還であります」
花束片手に報告がてら、俺は上司の部屋へと向かった。正直辛いものがあったが、無理を言って勤務の変更をして貰った以上は礼儀だ。扉を開けて開口一番敬礼しながら言う。辛気くさいのは苦手だ。だから出来るだけ明るい雰囲気で通そう思っての演出だった。のだが。
「……泣いてもいいんだぞ? 大嫌いな注射を無理矢理打たれた後の子供でももう少しマシな顔をしている」
俺の顔を見るなり瞬時に全てを理解したらしい上司――マスタング大佐が、痛ましい顔をして言ったので。
「た、大佐~~!!」
思わず張りつめていた気が緩み、ずっと堪えていた涙がだーっとこぼれ落ちる。
「こらっ、泣くのはいいが、寄るな、触るな、抱きつくな! 鬱陶しいわ! 私は男に胸を貸す趣味は無い!」
「ううっ、だっで、大佐がめずらじく、やざしいから……俺、俺ぇ……!」
「わ、分かった、分かった! とりあえずこれで涙を拭いて鼻水をかめ!」
大佐はポケットからハンカチを取り出してぽいっと俺に投げてよこした。それを拾い上げて、俺はブビーっと鼻をかむ。
「……大佐の匂いがするッス。モニカほどじゃないけど、いい匂いッス……モニカぁ~!」
「……気持ち悪いこと言うな。 それから、フられた女の名前はもう出すな。忘れろ。それがお前のためだ。……ただお前と縁が無かったというだけの話、気にするな」
そのハンカチは返さんでいいからな、とぶっきらぼうんに言って顔を顰める大佐だったが、言っていることは至極まっとうでどこか俺に対する気遣いのようなものが感じられた。
「……そうッスね…元々、俺にはモニカは手の届かない花だったってことッスかね……」
大佐の思わぬ優しい態度に、俺は少し慰められた思いがしていた。幾ばくか落ち着きを取り戻して、とりあえず手に持っていた花束を応接用のテーブルの上に置いた。
名前も知らない可憐な花々で構成されたそれ。せっかくだからと、大きく立派に見栄えよくと花屋のおばちゃんがサービスしてくれた。だが、結局彼女には渡せず無駄になってしまった。
――こんな大きく立派な花束よりも、俺はモニカという一輪の花が欲しかったのに。
ああ、やばい。せっかく止まった涙がまた出てきそうになって、俺はぐずっと鼻を鳴らした。
「俺なりに頑張ったんスけどねえ……」
肩をがっくりと落としつつ、続けて俺自身も応接用ソファーにどかっと座る。両腕を背もたれに投げ出して、天井を仰ぐと無性にタバコが吸いたくなった。
「ああ……一本吸いてー…」
「……吸っていいぞ。今夜はサービスだ」
「マジッスか」
大佐の執務室は基本的に禁煙である。紙や書類が燃えてしまったらことだし、臭いが付くからという理由で他でもないここの副官に禁止されたのだ。
「いいんスか。……中尉に叱られません?」
「ここの部屋主は私だ。私が良いと言ったら良いんだ」
一応確認すると、大佐は憮然とした顔で言い切った。俺が大佐よりもホークアイ中尉の顔色を伺った事が納得がいかないのだろう。どっちの階級が上だと思っているんだとその顔は語っているが、ここ東方司令部の力関係は単純な階級の高い低いには左右されないことを俺はよーく知っている。
「じゃー遠慮なく。もしもバレたら、中尉には大佐が怒られて下さいね」
失恋した上に、ホークアイ中尉に怒られるのは勘弁願いたものだ。俺は懐からタバコの箱を取り出すと、一本口にくわえた。そして、ライターで火を付ける。モニカが嫌がるからと最近控えめにしていたせいか、その味は身に染みてうまかった。思う存分煙を吸い込み、吐き出す。その時だ。
「私にも一本よこせ」
「へ?」
いつの間にかそばに寄って来ていた大佐が、俺からタバコの箱を取り上げた。驚いて見上げると、大佐はさっさと箱からタバコを取り出してくわえている。
「どーしたんスか。大佐も失恋でもしたんですか」
「……さあな」
ガキの頃は吸っていたらしいが、少なくとも大佐が俺の前で吸っていた記憶はない。そんな人が突然一本とか言い出したら、誰だって驚くだろう。
「私だってタバコを吸いたい気分になることもある」
「それって具体的にどーいう気分ですか。……俺、すげー気になるんすけど」
「気にするな」
「気になりますって。どのくらい気になるかと言いますと、思わず失恋の痛手を忘れそうになるくらい、今、気になってます」
「それはお前、気になりすぎだろう……」
現金な俺に呆れた顔をする大佐のタバコに、ライターで火を付けてやる。大佐はなかなか様になった仕草でタバコを吸い始めた。これはガキの頃、相当吸っていたに違いない。
「別に。お前に比べたら、おそらく下らない理由だ」
大佐は遠い目をして、ふーっと煙を吐き出している。この人がこんな顔をしている時は、大抵ある人物が関係している。
「……ホークアイ中尉となんかあったんスか」
俺が指摘すると、大佐は煙に噎せてせき込んだ。分かりやすい人だ。
「……お前には関係ない」
何も無いとは言わない所が何かあったと認めているようなものだ、こういう所がこの人の可愛い所かもしれない。
俺は最近のホークアイ中尉情報を脳裏に思い浮かべ、そしてすぐにその答えを見つけだした。少し前に後輩が話していた事――下士官に告白を受けていた事が、おそらく大佐の耳に入ったに違いない。
「中尉はきれーですもんねー。うかうかしていたらどこの馬の骨とも分からない奴にとられちまいますよ」
「うるさい。……どいつもこいつも似たようなことばかり言いおって」
俺のからかい混じりの言葉に、大佐は渋い顔をしている。この人は女にフられたことなんて無いような色男で、俺なんか足下にも及ばないくらいモテる恋愛通…のはずなのだが。ことホークアイ中尉との関係については、大佐にとっては大きな弱みなのだ。
大佐はどうでも良い女とはいくらでも遊ぶくせに、本命には一向に手を伸ばそうとはしない。ただ、こうやって中尉が他の男に愛を告白されたと聞いては苛ついて、不機嫌になっている。
正直、何をやっているんだ、と思う。
崖の上に綺麗な花が咲いていたら、たとえそれが険しい崖だろうと迷わず登るのが男ってもんだろうと俺は思うんだ。
だから、俺は迷わずモニカへの崖を登った。結果は手が届かず、まっさかさまに落ちたが。そして、実を言うと俺は昔、中尉への崖も登ろうとした事がある。あの時はあんまり綺麗な花なんで、思わず登ってしまったのだが。だが、結果は推して知るべし。登ろうとする前から落ちた。
同期の同僚には、お前は周りを見ないですぐ突っ走るからいろいろ失敗するんだとよく叱られる俺だが、その言葉はまあ、一理ある。俺は崖を登ろうとする前にもっとよく周りを見てみるべきだった。おそらく、あの時中尉の崖から俺が落ちたのは、目の前に居るこの人のせいな気がするのだ。
「デートの最初に女にデカい花束を贈るような気の利かん男に言われたくない」
「ひっどっ! 俺、めちゃめちゃ傷ついてるのに!!」
心の傷を蒸し返されて、俺のハートはブレイクである。だが、大佐と話しているうちにいつの間にか、失恋の悲しみは薄らいでいた。
「くっそ、あんたもさっさと告白して付き合ってフられちまえ! そんで、俺に慰められればいいんだ!」
心が軽くなって、軽口を叩けるほどにまで回復している。俺はもう、大丈夫だ。また崖を登ろうと思えた。モニカへと通ずる崖はきっと俺の本当に登るべき場所じゃなかったんだ。そしてホークアイ中尉も同様だった。その場所を登るべき男はもう既に他に居たのだから。
「うるさい! 簡単に言うな! 不吉なことも言うな!!」
いつか、俺だけの花が俺にも見つかるはず。その時まで、何度でも崖を登ってやる。
だから。
大佐も、大佐だけの花のためにさっさと崖を登ればいいのだ。


――きっと。彼の手は花に届くだろうから。



【ロイ・マスタング】

幼い頃の私はよく、我慢する子供だった。
両親を亡くし、叔母の元で育てられた私はそれなりに遠慮というものを知る子供だったようだ。
ある時、私は古書店で一冊の錬金術書とにらめっこしていた。それは題名を見て以来絶対読みたいとずっとずっと願っていた本だ。だが、高名な錬金術師のその本が子供に手が出る価格でないのは、火を見るより明らかだった。それでも諦めきれなくて、私は本屋へとやってきてはガラスケースに厳重に保管されているその古めかしい装丁を眺めていた。
叔母さんに買って欲しいなどとはとても言えない。いや、言おうとも思っていなかった。自分の面倒を見て貰っているだけでもありがたい話だ。とても優しくして貰い、錬金術の塾にまで通わせて貰っている。その上これ以上叔母さんに迷惑をかけるわけにはいかない。
幼いながらもそう理解していた私は、じっと我慢をする。欲しくて欲しくてたまらないものを。
「あんたが欲しい本ってのはそれかい?」
「叔母さん!」
突然かけられた声に驚いて振り返ると、いつの間にか叔母のクリスが呆れた顔をして立っていた。
「叔母さん、どうしてここにいるの?」
「店の女の子が教えてくれたのさ。あんたがいつもこの本屋に居るってね」
お見通しだよ。と鼻をフンとならして、叔母は言う。
「バカだねえロイ坊。あんた、そんな今にも涎をたらしそうな顔して眺めてるくせに、なんであたしにその本を買ってくれって一言お言いでないんだい?」
叔母は乱暴な手つきで私の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「あんたの保護者はそんなにケチでも貧乏でもないよ。自分の子供の欲しいものくらい買ってやれるんだ。だから、ガキがいっちょ前に我慢なんてするもんじゃないよ」
叔母の言葉は涙が出そうになるくらいありがたいものだった。私を本当の子供のように扱ってくれるその優しさが、とても嬉しかった。
私は素直にお願いして本を買って貰いたかった。数多の知識を手に入れたかった。しかし、私は意地を張った。
「違うよ、叔母さん。僕が叔母さんに言わなかったのは、我慢していたからじゃないよ」
「へえ? じゃあどういう訳なんだい?」
「僕は欲しいものは自分の力で手に入れたいんだ」
それは子供なりの精一杯の虚勢。私の言葉に目を丸くした叔母は、次の瞬間大口を開けて笑った。そして豪快に笑いながらどこか誇らしげな顔をして、また私の頭をぐりぐりと強く撫でてくれた。
「そうかい。分かったよロイ坊。あんたも男だ。欲しいものは自分の力で手に入れな」
それから私は叔母さんのお手伝いをそれまで以上にし、少しづつお小遣いをため、その本を手に入れることとなる。
今では懐かしき思い出となった、幼き日の出来事だ。だが、三つ子の魂百までとはよくいったもの。
……今もまた私は欲しいものを我慢し、崖の上の花を指をくわえて眺める日々である。



「欲しいものは自分の力で手に入れる……か」
ふとした瞬間に過去の己を思い出して、私は苦笑していた。
誰に頼ることなく、自分の力で成し遂げた幼い自分。今思えばなんと無謀で、かつ素晴らしく聡明な子供だったことか。
あの頃のようなただ真っ直ぐな心根と行動力が欲しい。私は切にそう願った。今の私はいろんなしがらみに雁字搦めになっている。過去の傷、現在の立場、目指すべき未来。そのために欲しいものに手を伸ばせぬ、不甲斐ない自分。だがしかし。そうやってもたもたしていて、目の前で他の誰かに花を持っていかれるなんて冗談ではないのだ。
「あ――中尉?」
「はい」
脳裏に蘇るのは、彼女が司令部の誰かから告白されていたという話だ。それは私の心に並々ならぬ衝撃を与えた。例えるならば静かだった水面にいきなり大岩を投げ入れられたようだ。その波紋はやがて広がり、小さな波にとなり、大波となり、現在大嵐となった。我慢する日々はもう終わりにして、私は行動に移る。幼き頃と同じように。
「今夜食事に行かないか?……上手い店を知っているんだ」
彼女を副官にしてから初めて本気で口にした、直接的な誘い文句だった。今まで何度となく誘いをかけたことはあった。だがそれは全て断られることが前提のいわばパフォーマンスだったのだ。周囲からは私の狙い通りこう見えていただろう。美人の副官に懲りずにちょっかいをかける上司と。
だがこの日、私はようやく本気で崖を登る。誰にも手折られることなく凛と咲くその美しい花を、何としても我がものにしたいと。これはそのための第一歩だった。
私の執務室で処理の終わった書類の確認作業をしていた彼女は、そこでふと手を止めた。現在時刻は夕刻。このまま行けば二人とも定時に上がれるはずだ。何も問題はない、はず。だが、ホークアイ中尉がいつまでも沈黙したままなので、私の手に緊張の汗が滲む。
「……なら」
「え?」
とにかく緊張でテンパっていた私は彼女の声を聞き逃した。すると、中尉はほんのりと頬を赤くして、伏し目がちに言った。
「……魚料理、なら。お付き合いします」
その瞬間、確かな第一歩を私は踏み出した。



「なあ、中尉」
「はい」
「……どうして今日は、その、食事に応じてくれたんだ?」
レストランでの夕食を終えて、二人で歩きながらの帰り道。さりげなく彼女にすぐ隣を歩かせながら、私はどうにも気になって仕方がなかったことを尋ねてみた。
本当を言うと、私は最初の誘いは断られると思っていた。今まで何度も戯れの誘いをかけ、その度に中尉は応じてはくれなかったからだ。それが今度こそ私が本気になった所で、最初から上手くいくとは思ってはいなかった。崖から落ちることを私は覚悟していたのだ。落ちても落ちても、何度でも登るつもりではあったが。
もちろん今夜のことは単に彼女の気まぐれかもしれないし、ちゃんとした答えを期待していた訳ではなかった。だが、私の問いにホークアイ中尉は真剣な瞳で私を見つめてきた。その真っ直ぐな澄んだ瞳を私も正面から受け止める。
「……枯れない花が欲しいと思ったのです」
「何?」
彼女から飛び出た言葉の意味が俄には理解出来なくて、私は目を白黒させた。すぐに聞き返したが、中尉はもう次には首を振り何でもありません、と言うばかり。二度と同じ台詞を言う気はなく説明する気もないらしい。
「枯れない花か……」
とにかく聞こえた部分だけでも何とか咀嚼しようと、私は懸命に首を捻って考える。するとふと、道端のフラワースタンドが目に入った。その脇に置かれた鉢植えを私は一つ手に取る。
「これを一つ」
「はいよ」
手早く花売りのおばさんに袋に入れてもらい、中尉が口を挟む暇もないスピードで買い物を終えた私はそれを彼女に差し出した。
「こんなもので申し訳ないが、これなら枯れないだろう。もちろん、水やりや肥料もやらねばならないが……根があり土があれば、いつか枯れてしまっても種を落としてまた芽が出ていつかまた花が咲く。君が育てるといい」
彼女の言葉の意味の答えがこれで合っているのかは自信はなかったが。一応私なりに考えた結果である。すると、驚いたようにその大きな瞳を見張った中尉だったが、反射的に手を出して私のプレゼントを受け取ってくれた。やった! と内心快哉を叫んだが、しかし、そこで重大なミスに気づいた。
――これではハボックと同じ、気が利かない男ではないか。
女性に大荷物になる花を贈ってしまった。中尉の家まではまだだいぶ距離があるというのに。しかも、花束と違ってずいぶん重い鉢植えである。
「す、すまん……重いよ、な」
鉢植えを黙って見つめている中尉に、私は慌てて言った。せっかくのめでたい初デートを印象最悪にして失敗に終わらせたくはない。
「わ、私が持とう。君の部屋の中までっ」
そう思って慌てて中尉に告げたが、私はミスに加え更に失言をしたことに気づく。初デートで部屋の中まで送るとか、それはちょっと一足飛過ぎやないかと。何と言っても私はまだ、崖に足をかけたばかりなのだから。
「……では、お願いします。お礼にお茶くらいお出ししますね」
しかし。
彼女は素直に鉢植えを私に渡してきた。上官だからと遠慮することもなく、男だからと忌避することもなく、なんと歓迎してくれるらしい。こんなに最初からトントン拍子に上手くいっていいものだろうか?
「楽しみだ」
驚くべき奇跡に私は柄にもなく浮かれる自分を自覚した。だが、必死にそれを押し隠してあくまでも冷静に言葉を紡ぐ。あまりに最初から、欲張りすぎてはいけないだろう。あくまでも少しづつ。これから、少しづつ花に近づいていければいいのだ。
「行こうか」
「はい」
私達は夜道を仲良く並んで歩いていく。斜め後ろではない、すぐ隣を歩く彼女を横目でチラリと確認して。私は崖を登ってみるのも悪くないなと、思った。


永遠の花に手が届くまで、あと少し。


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マスタング組野郎共話。終了です。野郎共話なので男のみの話。




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by netzeth | 2014-11-12 01:32 | Comments(0)