うめ屋
意気地なしと止まり木
足下で丸くなっていた子犬がくわっとあくびをしたのを見て、リザは目元を和ませた。時計を見ればそろそろ日付が変わる。明日は遅番だからと言って少々夜更かしし過ぎてしまったようだ。自分はまだ眠くはないが、子犬を付き合わせるのはいただけないと思い、読んでいた雑誌をラックに収めて小さな家族に声をかける。
「そろそろ寝ましょうか、ハヤテ号?」
黒犬がぐるりと首を巡らせてリザを見上げた。そのトロンとした眠そうな目に思わず微笑んだ時だ。子犬の寝ていた耳がぴんと立って、彼は弾かれたように立ち上がる。同時に尻尾が激しく振られ出したことでリザは瞬時に二つの情報を読みとっていた。
一つ、訪問者が近づいていること。二つ、それはリザのよーく知る人物であること。
小さく嘆息してから、リザは立ち上がった。その深夜の訪問者を出迎えるために。
夜中故に周囲をおもんばかったのだろうか。ノック音はコンコンコンっとごくと軽いものだった。けれど途切れることなくそれは延々と続く。ある種の予感がして、もう一度リザはため息を吐いた。それから鍵を外し扉を開ける。
「……きゃ」
その瞬間、ドサッとした重みが肩にのしかかって思わず悲鳴を上げた。顔の横に黒毛が見える。鼻に抜けるのは彼と……強い酒の匂い。
「ちょ、大佐……?」
抗議と疑問と二重の声を上げても、返答はなく、代わりに肩の上の重みが増した。押されるようによろよろと一歩二歩と下がる。リザにのし掛かる男も合わせて移動するので、背後でばたんっと扉が閉まった。
それにホッとしながら、リザは脚に力を入れた。これでも軍人だ。大人の男一人くらい支えられる。――ましてそれがロイならば。
「やっぱり…また、酔ってらっしゃるんですね」
それは疑問ではなく、断定だった。相変わらず沈黙しているロイに、もう一度大佐と呼びかければ、代わりに安らかな寝息が聞こえてきて。
「……もう、いつもいつも…。この人どうしようかしら、ねえ? ハヤテ号」
……捨てちゃえ~と聞こえたのは幻聴でない気がした。度々の上司の深夜訪問をただ一人、いや、ただ一匹知る愛犬は、首を傾げてリザを見上げている。
「そういう訳にもいかないのよね……」
このまま外に放り出したいのは山々だが、それで風邪でも引かれようものならば、困るのは結局副官であるリザだ。
仕方なくずるずる引きずって、部屋に入れソファーに座らせようとする。けれど、ロイは力が入らないらしく背もたれを背中が滑り床に尻が落ちていってしまう。今度は脇の下から手を入れて、無理矢理身体を引き上げてソファーに寝せた。
「もうっ……」
黒頭を太ももに乗せて膝枕をしてやれば、この迷惑な酔っぱらいはようやく安住の地を得たとばかりに大人しく横になってくれた。リザとロイの足下をうろうろと付いて回っていた愛犬も、リザの足下に伏せて目を閉じる。そんな彼からお疲れさまと、声がまた聞こえた気がする。
本当よね。
一息吐いてこの苦労の元凶を見下ろす。彼は子供のようなあどけない寝顔をさらして眠っている。毒気が抜かれてしまうことこの上なくて、リザは微笑みの成分が口元に乗るのを、止められなかった。
「……本当にもう、一体、なんなんですか……」
何となく上司の黒髪を撫でながら、呑気な寝顔に苦情を落としてみる。むろん、返事はない。
毎度毎度突然押し掛けられて、あまつさえそのまま熟睡されて。
せめて連絡の一つもよこして欲しいと思う。それならばこちらだって、それなりの準備が出来るというのに。
そこでリザは気づく。この期に及んでも、自分は別に彼に来られること自体は迷惑に思っていないことに。
そんな自分に思わず苦笑した。
「だって、仕方ないじゃない……ねえ?」
言い訳するように呟く。足下の黒犬がぴくぴくと耳を動かして、主人を見上げたがすぐにまた目を閉じてしまった。主人に話しかけられた訳ではないと彼は了解したようだった。
事実、リザは他者にではなく己の内にと語りかけていた。
どうして彼はここに来るのだろう、と。
どういう時にロイが現れるのか、既にリザは気づいていた。……心身共に弱っている時に彼は決まってやって来る。ああやっていつも泥酔して。彼の内実をリザは全て知っている訳ではないが、彼とて人間だ。心の天気が荒れる時もあるのだろう。
いくら彼が強い人間でも、嵐の中を一人飛び続ければ疲れ切っていつか、落ちてしまう。そういう時こそ羽を休める場所が必要で。
止まり木…安心して休める場所。つまりはそういうことかもしれない。
つらつら考えるうちに、ぼんやりと自分の役割が見えてきたけれど、でも、とリザは思う。
結局自分の元では彼は仕事を忘れられない。真の意味で休息を得られないだろう。それにプライベートまでうるさい副官の顔を見に来なくていいし、もっと安らげる女の所にいけばいいのだ。自分よりも柔らかな指を持つ女の元に。
――ああ、この想像はなんだかおもしろくない。
自分で考えたくせに滑稽だが、妙にイライラしてきて、指に絡む黒髪を引っ張ってやりたい衝動に駆られたその時だった。
「うん……」
身じろぎをした男が、微かに瞼を持ち上げた。瞳が眩しそうに細められている。
「気がつかれましたか? お水飲みます?」
「飲む……」
しゃがれ声だったが、しっかりとした返事があってリザは心得たように頷いた。
これもいつものことだったからだ。
ロイは深夜に酔って押し掛けては来るけれど、こうやってしばらくリザに介抱されると意識を取り戻す。そうして、必ず自分の足で自宅に帰って行くのだ。その点は律儀なものだとリザは毎回感心していた。別に泊まっていってもいい、ベッドを明け渡してソファーで寝るくらいかまわないとリザは思っている。
「お待たせしました」
キッチンで水を用意し戻れば、起き上がったロイがソファーに座っていた。背筋がしゃんと伸びているのでだいぶ酔いは醒めたようだ。
「……ああ、すまん」
グラスを受け取りぐびぐびと喉を鳴らして水を飲む男を眺めつつ、リザはその隣に腰を下ろした。今日こそは言ってやりたいことがあった。ただの休憩用止まり木にだって、主張したいことはある。
「大佐、酔いは醒めましたか?」
「ん?……ああ、だいぶ、な。すまん、ありがとう」
口元を手でぬぐって、ことんっと目の前のローテーブルにグラスを置く彼を横目で見やりながらリザは切り出した。
「……あの、大佐」
「ん?」
「別に私は自宅に来られるのはかまわないのですが……いらっしゃるのなら、素面でどうぞ。毎回毎回……」
「す、すまん……つい、飲み過ぎてしまってな……」
強い口調で言われて、ロイが動揺したように言い訳を口にする。しかし、リザは首を振った。
「そういう意味ではありません」
「なに?」
きょとん、としたロイに、言い含めるように、今度は優しく告げる。
「こんなになる、前に来て下さいと申し上げているんです」
疲れ切ってどうしようもなくなって酒に逃げる前に、苦しむ前に、辛くなる前に、ほんの少しでも何か違和感を感じたら。
止まり木だと言うなら、いつだってその場所を提供する。だから、遠慮なんてすることなく、もっと早い段階で訪れればいい。毎回毎回ギリギリまで耐える必要などないのだ。
「私は…貴方に対して閉ざす扉はもっていませんよ。私はいつでもいます。ここにいますから」
言いたいことを全て言い終えると、ロイは何とも形容しがたい顔をした。喜びでもあり苦悩でもあり怒りでもあり照れでもあり……その全てが絶妙にミックスされた顔だ。
「……なんてお顔をなさっているんです」
「君が変なことを言うからだ」
「へん、でしょうか」
「ああ、変だ。副官である君が言うにはすごく変だね。……まるで恋人のような口をきく」
「恋人? 私が、ですか?」
まさか、と言いかけて口をつぐんだ。ロイがとても渋い顔をしていたからだ。
「流石にその先を口にするのは止めてくれ。……私だって傷つくんだ」
傷つく? 何故ロイが傷つくのだろう。リザに恋人なんかじゃないと否定されて。その意味が咀嚼され、飲み下され、そして心にじわじわと浸透していくにつれ、リザの頬に羞恥のバラ色が広がった。
ロイに言われるまでまったく念頭になかった自分は相当鈍いのかもしれない。でも、まさか。まさか、ロイがそういうつもりでここに来ているとは思わなかったのだ。
そして。ロイを受け入れようとしていた自分の行動も、それ、に十分あたいする行為だとリザはまったく自覚していなかった。
急速な羞恥心と戸惑いに襲われる。けれど、ロイがリザにそれ、を求めることは不思議と不快ではなく、むしろ穏やかな気持ちになった。
それが、たまらなく面はゆい。
そんなリザを見つめて、ロイはしたり顔で言う。
「分かったろう?」
「何がです」
「君んちに素面で来るのは勇気がいるんだ」
「……意気地無し」
上司に対する言葉としては乱暴だが、彼がそのつもりで来ているのでないならば、かまうまい。実際彼は否定せず苦笑を浮かべて頷いた。リザの言うことに逆らうつもりはないというその態度は、ある種の男女の親しさが自分たちの間に存在することを物語っている。
ああ、もうずっと前から。彼は。
「だな。酔っていても口説き文句のひとつも言えやしない」
「本当に、意気地無しです」
「……なら、返上してもいいだろうか。今日こそは」
「………どうぞ」
遠慮がちに言えば、もう一度彼は苦笑の成分を表情に散らしていた。我ながら色気の無い返事だと思ったが、リザは開き直る。
――止まり木にいきなりそこまで要求されても困るというものだ。
ロイの両手が伸びて肩を掴まれた。予感がして、反射的に瞳を閉じる。身体は緊張に固まっていて、動けない。キスの作法を知らない自分ではそれが限界だった。
ふんわりとした暖かな空気が唇にかかる。それがロイの吐息だと気づくまで、1秒。
「く~ん……?」
という甘え声が静かな部屋内響いて、驚いて目を開けた。至近距離に見えたロイの顔も同じ表情をしている。二人で同じ方向に視線を落とせば、そこには何をしているの? 混ぜて~とでも言いたげな子犬の無垢な瞳。
思わずロイと顔を見合わせて、吹き出した。笑いながら彼が言う。
「……こら、ハヤテ号。良いところ邪魔するなよ、お前はハウスだ」
けれど、愛犬は動かない。主人からの命令でなければ聞かないのだろうと今度はリザが寝床を指さしてハウスを命じた。けれど、やっぱりハヤテは微動だにしない。それどころかますます尻尾を振って、かまってとせがむばかり。
「ダメですね」
「躾てないのか?」
「……今まで必要がなかったものですから」
「なるほど、では」
っと、ロイはそこでニヤリと笑う。
「今後の課題だな」
彼の言わんとすることを察して、リザの身体の温度は上がった。ロイは素知らぬ顔で子犬を抱き上げて遊んでやるようである。
それを微笑んで見やる。
次の訪問はきっと、ロイは素面で来るのだろう。意気地無しを返上して。ならば、自分はもっとより良い止まり木になれるように努力せねばなるまい。疲れ切った彼が羽を休められるような……。他の誰でもなく、自分にその役割を求められたことをリザは嬉しく思った。
END
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