うめ屋
ロイ・マスタングの長い夜
鍵を渡されたのだから約束がなくても行ってもいいと言うことだろう。そう思ってはいてもなかなか使う機会訪れず、いざチャンスがあっても妙な恥ずかしさと遠慮が邪魔をして実行するのにだいぶ時間が経ってしまった。
本日彼女は非番、明日は遅番。私は明日が非番だ。
脳内にがっつり入れている自分と彼女のシフトを確認し、サプライズ訪問をするのは今夜しかないと心に決めた。
突然行って迷惑がられないだろうか、やはり電話の一本でも入れるのが礼儀だろうか。そんな葛藤もあったが、私にも一度くらい唐突に訪れてみたいという憧れがあった。最初から予定があって会いに行くより突然顔を見たくなったからふらりと立ち寄ってみたぞ? な方が断然ロマンチックだろう。
……まあ、こうやって、行くぞ? 良いよな? 行くからな!? って心の準備をしている時点で前提は破壊されている訳だが。そこは私の心の問題なので気にしない。あくまでも体裁が整ってればそれでいいんだ、うん。
とは言っても手ぶらで行くほど不躾ではないし、彼女に余計な気を使わせるのは本意ではないから、途中のデリでたっぷりと夕食を買い込んだ。もちろん彼女の愛犬への土産もな。もし彼女が夕食を済ませていて余ったら、明日の朝ご飯にでもすればいい。疲れ切っている(予定)の彼女にはちょうどいいだろう。
楽しいだけの計画に心が跳ね回る。ほとんどスキップで彼女の部屋に到着しそのドアをノックした。
うん、返事がない。だがそれを残念には思わなかった。想定内だ。なにせ、早速合い鍵に出番が来たのだから。
なんだか恋人みたいだな、なんて思いながら(恋人だが!)いそいそと鍵を懐から取り出し、中に入った。ふわん、と彼女の香りがする部屋は心から落ち着く場所だ。テーブルに食べ物をおくと、ソファーに座ってとりあえず彼女の帰宅を待つことにする。
時刻は20:00になろうとする頃合い。おそらく、夕食を外で食べているのだろう。それとも自宅で済ませた後の夜のお散歩か? 夏は子犬の負担にならぬよう、涼しい夜に散歩をすることがあると言っていたからな。
そうして座すこと、一時間、二時間、三時間……23:00を回った辺りでとうとう我慢出来なくなって私は呟いた。
「遅い……」
いくらなんでも遅い。アツアツだった料理はすっかり冷め、私の腹もぐうと鳴いていた。独りで食べることも出来たが、なんとなくそれは侘びしくて。彼女を待ちたい気持ちが勝って空腹をなだめながら、思いを巡らす。
これは……どこかに出かけたと考えた方がいいだろうか。
だが、街を離れるなら彼女は必ず私に報告していく。プライベートは自由だが軍からの緊急の呼び出しがあるかもしれないから、という理由できちんと行き先や滞在場所を告げていくのだ。だから、イーストシティを出ている訳ではないはずだ。
ここで初めて不穏な想像が思い浮かんだ。一つ一つ可能性を潰していくためにまずは軍部に電話をかけた。幾つかやり取りをして、確認をする。事故や事件に巻き込まれたなら必ず司令部にも情報が飛ぶはず。しかし、急を告げるようなものは何もなかった。
ならば……事態は別の方向の嫌なものへと転がる。背中を嫌な汗がつーっと落ちていった。
誰かと……会っている? しかも、こんな遅くまで一緒にいるようなごく親しい相手と。
いやいやいやいや、まさか、な。
慌てて自分で自分の想像を否定するも、一度思い至ってしまったならそれは積乱雲のようにどんどん発達し大きくなって、やがて、私に嵐を呼んだ。
そんなはずはない。あるわけ……ない、だろう。そうだ、ハヤテ号だ。もしもデートだとしたら飼い犬を連れていくか?……いや、もしやもうそこまで親しい間からだとしたら…ハヤテ号までも懐柔されている相手だとしたら?
「バカな!」
私は叫んで立ち上がった。独りで空腹でじっとしているから、嫌な考えに支配されてしまうのだ。そうだ、動こう。決意して歩き出すも、それほど広い部屋ではないからすぐに壁にぶち当たる。角度を90度曲げてまた歩き出せば寝室への扉が見えた。
ふと、魔が差したように私はそのドアを開けていた。
もちろん、入ったことがない訳ではない。何度もそのベッドのスプリングの感触を味わっている。だが、彼女がいない時に足を踏み入れたことはなかった。当然だろう、女性の部屋だ。プライベートをのぞき見するのは親しい仲とはいえ礼儀知らずだろう。
しかしこの時は欲求にあらがえなかった。ふらふらと部屋に入り、明かりをつけ無意識に周囲を見渡す。私は意識下できっと、何か、彼女の心が分かるものがないか探していた。もしも男……がいるというのなら、必ず痕跡があるはずだ。
下種な行為と分かっていても止められず、化粧机を兼ねたようなデスクに近寄り、引き出しを空けた。きちんと整理整頓されている中にはルージュやその他、こまごまとした化粧品が収められていた。あまり化粧っけが無い彼女にしては多彩な種類を揃えていて、心がざわめいた。
まさか、な。まさか……。
どうしても疑念を払拭したくて、私は次に壁際に置かれた木製のチェストへと手を伸ばしていた。上にはクッキー缶とおぼしき大きな缶入れと本が数冊置いてある。「上司の操縦法100選」だの「年上男性の転がし方」だの見逃せないタイトルが気になったが、それは開けてはいけないパンドラの箱な気がしたので、代わりにおそるおそるクッキー缶の蓋を開けた。それには事務書類などの紙束が入っていた。公共料金の支払い……領収書…ふと一番上に乗った名刺に目がいく。
大佐の金で肉が食べ隊、実行部隊長。
……いつの間に組織して就任したんだ、中尉。
男の影が見える代物ではなくホッとしたが、その肩書きに別の意味で動揺した。もしかして彼女が何食べたい? と聞くと肉と答えるのは……それから3回に1回はハボック達野郎共を伴ってくるのは……深く考えるのはよそう。精神衛生上よくない。
私は頭を切り替えた。これはこれで気になるが、今の問題には関係ない。
次に視線が行ったのは、チェストの引き出しだ。私はここに何が入っているのか知っている。彼女の靴下や下着…だ。見てはいけない禁断の領域だが、ここにこそ真実が眠っていそうで見逃すことは出来なかった。もしも男がいるなら……下着こそ変化があってしかるべきものだろう。
意を決して引き出しを引っ張り出せば、見慣れた黒の飾り気の無い下着が目に飛び込んでくる。そうそう、これこれ。私がもう少しかわいいのをつけない? と何度言っても頑なに拒否され、押し通されたやつ。
が、その時、黒の下着群に押しやられた隅っこで潰れている紙袋が、やけに気になった。ごくんと唾を飲み込んで、紙袋を手に取り中を覗く。そこには純白のレースのブラとショーツの上下セットが鎮座していた。
すけすけの! 布面積が少ない! セクシーな!
脳が理解を拒否して、私は声にならぬうめき声を発しつつ紙袋を下の場所に押し込み引き出しを閉めた。心臓がばくばくと音を立てて動いている。
私がいくら頼んでも、土下座する勢いでお願いしても、決してつけてくれなかった男を悦ばせる類の下着。この存在が意味することを、無視したくとも出来ない。
ふと、ベッド脇に置かれた時計を確認する。時刻はもう0時を回る。
……部屋主はまだ帰らない。
たまらなくなって、綺麗に整えられたベッドの上にダイブした。男の体重を受け止めてスプリングがぎしぎしと悲鳴をあげる。
このシーツを乱すのもスプリングを鳴らせるのも、彼女と二人でするはずだったのに、枕をひっつかんで胸に抱えて鼻から空気を吸い込んだ。どこよりも濃厚に香る彼女の匂いが私のささくれだった心少しだけ慰める……かと思いきや、この香りが他の男と共有されているのかと思うと、胸が焼けるように痛んだ。
とにかく彼女に言ってやりたいことが山ほどあった。今まで言葉にしようとして迷い結局封じ込めていたこと。良識ぶりたくて、かっこつけたくて、晒せなかった、むき出しの独占欲。
だから…頼む、早く帰ってきてくれ。独りの夜はひどく長かった。
うっすら明るくなったと思えば、小鳥のさえずりとともに朝日が差し込んできた。結局私は一睡もせず、中尉の部屋で彼女の帰りを待っていた。
徹夜が堪えるような歳でも体力もしてないが、体感的には真っ白に燃え尽きていた。
その時、きゃんっと弾むような子犬の鳴き声。
「あら? どうしたの、ハヤテ号」
待ちわびた声を聞いて、彼女の愛犬のように玄関口へと走った。扉を開け中に入ってきた彼女に間髪入れずに抱きつく。
「きゃ……っ、た、大佐……!?」
珍しく動揺した風の中尉を無視して、鼻先を首筋へと持って行った。くんくんと犬よろしく匂いをかぐ。知らないシャンプーの香りにめまいがしそうだった。
「どうなされたのです? こんな朝早く……」
「君こそどうしたんだ。朝帰りなんてして」
「え……もしかして、昨日からいらしてたんですか?」
硬い声が出た。きょとんとした驚きの声が余計に気に障って、頬を包み込むようにして引き寄せ唇を塞いだ。
「ん……っ!」
少しだけ酒の香りがした。息を奪うように口づけて、逃さない。舌を無理矢理に絡め合わせて力が抜ける隙をついて、体に手を這わせた。この身体の形を知る男が、自分以外にいるなど許せない。
「っちょ……たい、さ……んんっ」
抗議の声を飲み込み、肩を叩くこぶしも無視した。このままこの身体の所有権が誰にあるのか教え込んでやる……そんな危険な思考に支配された時、きゃん! という鳴き声がして我に返った。
「ハヤテ号……」
足下を見下ろせば、子犬の黒い姿が見える。まるで何をしているの? とでも言うような純真無垢な瞳に理性が戻った。
「子供の前で……止めて下さい……」
頬を染め、色香をにじませた彼女が乱れ髪を整えながら言ってくる。でも、子供連れでお泊まりしてきたのだろう?
沸き上がる激情を飲み下し、私は彼女を解放するとふらふらと部屋に戻ってソファーに沈んだ。
「あの……大佐?」
子犬を引き連れた彼女が追いかけるようにやってきて隣に腰掛けた。黒犬はその足下に落ち着く。気まずい沈黙が数秒続いて、やがて彼女が遠慮がちに口を開いた。
「申し訳ありませんでした……いらしていたとは知らず……」
彼女が謝ることなんて何もない。プライベートで何をしようが自由だ、勝手に来たこちらが悪い。そう否定しようとしたが、出来なかった。
何故か? なんて、もうとっくに分かっている。
私は彼女がプライベートで何をしようが自由だと思っていないからだ。……少なくとも、私以外の男と一夜を過ごすなんて認められないし許せない。例え彼女を引き止める正当な肩書きを持たなくても。
「昨夜は、実は……」
「言わなくていい!」
だから中尉が続けようとした言葉を私は制止した。聞いたらどうにもならなくなる。荒れ狂ったどす黒い感情がまた吹き出して、彼女にぶつけてしまうかもしれない。そうなったらもう自分を止められそうにないし、後悔もしたくない。
「え…ですが……」
「わ、私は確かに不甲斐ない男だ。こんな関係にありながら、君と確かな約束も出来ない男だ……だから、君の行為を責める資格も持たない。だからといって、何も感じないという訳じゃない。これ以上は……」
「あの、何か勘違いをされていませんか?」
「何だと?」
「昨晩はカタリナ少尉の誕生日だったので、彼女の部屋でお祝いをしていたのですが……そのまま付き合わされてしまって。結局泊まりになってしまったんです」
「へ?」
今私はとんでもなく間抜けな顔をしている。
「彼女、最近恋人と別れたらしくて……せっかくの誕生日を独りは辛いって言うから……いっぱい愚痴を聞かされちゃいましたよ」
聞いた瞬間、安堵し過ぎて脱力した。顔を片手で覆い、ぐったりと背中を背もたれに投げ出す。そして沈痛な面もちで声を絞り出した。
「……じゃああのスケスケレースの下着は…?」
「なっ、大佐! 勝手に漁ったんですか!?」
「不可抗力だ!」
「変態です!」
一瞬で顔を赤く染め上げた彼女が睨みつけてくるが、怯まない。負けじと声を張り上げた。
「変態で結構! 君が! 朝まで帰って来ない君が! 絶対に黒の色気無しの下着しか身につけてくれなかった君が! あんな……男を悦ばせる下着を持っていたら! 気になるだろうが!!」
「男を悦ばせ……って、違います!」
「何が違う!?」
「あれは男を悦ばせる下着じゃなくって……!」
「って?」
「大佐を悦ばせる下着です……っ」
「何?」
間抜けな顔再び。
「……貴方が言ったんじゃないですか……たまには、色気のあるの付けて欲しい……って」
言った。確かに言ったが……まさかそれをよりにもよって君が覚えていてちゃんと実践してくれるなんて夢にも思わないだろうが……! ありがとうございます!
「ど、どういたしまして……」
心の叫びは後半口に出していたようで、突然の全力の礼に中尉は反射的に言い返してきた。律儀な子だ。
「良かった……」
全てが誤解で私の杞憂だった。思わず声が漏れれば、拾い上げた中尉が反応する。
「大佐。もしかして……心配なされていたんですか?」
「悪いか。君が朝帰りしたんだから、当然だろう」
なんの心配を? とは彼女も聞いて来なかった。それくらいは自覚があるようだ。大変結構だ。
「男なんていっぱいいるからな」
世間は私を自信家で出世に目がない不遜な男……そんな風に見ているが、彼女に関してだけは違う。いつか彼女が、私以外の可能性に気づいて離れてしまうのではないか、といつだって心配している情けなくずるい男だ。
ムクレた私の顔を彼女はきょとん、と見返して。それから至極当然という口振りで言った。
「……でも貴方は一人ですよ」
瞬間、微笑みと共に発せられた言葉を、彼女ごと離すまいと抱きついた。
「人はな、楽しいことは短く、苦しく辛いことは長く、時間を体感するんだ」
「……突然何です」
「君のいない夜はとても長かった……」
つい力が入って、ぎゅうっと彼女を強く引き寄せる。抵抗が無いのが嬉しくて、調子に乗ってそのまま押し倒そうとすれば。
「……子供の前ですよ」
ちっとも嫌がっていない顔で、中尉は言う。
「そうか。うん、ちゃんとするよ」
今度はきちんと手順を踏んで。私は足下で丸くなる子犬に、ハウスと命じたのだった。
END
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