うめ屋
あしたのエデン サンプル
~本文より抜粋~
そわそわそわ……という言葉はここ数日の自分を形容するために存在する、とロイは信じて疑わなかった。
書類に目は通しているし右手でサインもしているが内容は入って来ず、ロイ・マスタングの綴りも書けているか怪しいものだ。油断すると重要書類にお花畑でも自動筆記しそうになる。
もちろんそうなったら約束は消滅、この浮かれ気分もたちどころにどん底へと急降下だ。する訳がない。
「大佐? 手がお留守ですよ。集中して下さい」
「分かってるよ」
する訳ないのにすかさず注意が飛んでくるのはさすが、優秀な副官である。ちらりと視線を走らせれば、こちらを見ていた彼女――リザと目が合って。少し怒っている風のそれに慌てて言い訳をした。
「すまん。あまりに……その、楽しみ、で」
思わず本音を率直に告げてしまい、慌てた。そーっと反応を伺う。叱られるのを覚悟したが、返って来たのは意外な言葉だった。
「……私だって、楽しみなんです」
それを我慢して仕事しているのに、貴方ばっかり。
後半は口に出していないが睨んでくる瞳と少しだけ赤く染まった頬の色が如実に彼女の本音を物語っていて、これにはロイもますます浮かれざるを得なくなる。が、今すぐに抱きしめたくなる衝動に落ち着けとまったをかけ年上として男としてそして上官として、ロイは威厳を保つべく緩む頬を必死に持ち上げた。
「うむ。そうか」
初デート。
脳内に浮かぶ初々しさ爆発の単語は、キラキラしいポップな文字にハートが飛んでいる。ロイにとって既に経験した人生初のデートよりも、彼女との初デートの方がよほど緊張するし、重要だった。
リザの父の弟子として、そして上司部下となって。二人共に過ごした年月はけして短くない。もうずいぶんと長い付き合いになると言うのに、未だに手すらも握ったことが無い。女性関係はそれなりに華やかだったロイが、これほどまで後手後手に回ってしまったのはひとえに相手が彼女だった故だ。
ずっと女性として好きだったし、愛してきた。だが手を伸ばそうとする機会を逃し続け、いざ誘いをかけても素っ気ない彼女に連敗記録を樹立し、またロイ自身にもいろいろ葛藤があった。そもそも自分は本命に弱かった。リザにはこれまで強く出られなかったのだ。
だがとうとう勇気を振り絞り、デートに誘うことに成功した。これは快挙であり、ロイは有頂天になった。ましてリザもまんざらではない様子。ようやく曖昧だった自分たちの関係をはっきりさせる時が来たのだ。
約束はもう明日。
「本当に楽しみだ」
「でしたら、きちんとお仕事をして下さい。最近少したるんでますよ」
「そ、そうか?」
確かに浮かれている自覚はあった。
「そうです。まあ、寝られるよりはましですが」
「おいおい、そんなに寝てたか?」
「はい。変なね、ごと…を言ったりなさって……」
寝言、の部分でリザが少し言いよどむ。変な間があったのがやけに気になって。
「おいおい、私はどんな寝言を口走ったんだ?」
「それは……」
うっすらと副官の白い頬に赤みがさして、いよいよ追求せずにはいられない。まさか彼女に対するがっついた欲望をぶちまけたりしてないだろうな。デートする前から幻滅されてはたまらない。
「妙なことを言っていたなら、謝る」
「い、いえ……そんなことは無いんですけど……」
「なら、なんと?」
「………リザ、と。眠っているのをお見受けする度に……」
「………………」
……初々し過ぎて逆に恥ずかしい。仲が深まったあかつきには昔のようにまた呼ぶつもりでいるけれども。何とも言えぬ沈黙が落ち、体中がむずがゆかった。
「すまん。今度から気をつける」
寝ている間の行動など、どう気をつけていいか正直分からないが。何か言わねばと謝罪すれば、ますますリザは頬を赤く染め照れたように視線を逸らす。たいそう男心をくすぐる表情だ。
「と、とにかく! きちんと仕事を終わらせて下さらないと、キャンセルですから!」
「それは怖い」
いつも手厳しい彼女の声音も、今は裏に甘さを含んでいるように感じる。仕事の催促すらデートへの期待の裏返しに聞こえて。
「頑張らねばな」
気合いを込め、ロイは緩んでいた気を引き締めてペンを握りなおした。……デート相手の機嫌をデート前に損ねる訳にはいかない。
夢を見ていた。
地平線のその彼方までも、岩と砂だらけの乾いた大地。砂塵の彼方に爆炎と黒煙が上がる。血しぶきが飛び、怒号と悲鳴がこだまし、銃声がとどろいた。砂色のフードから覗く金の髪。鷹のまなざしでライフルを構え引き金を引くのは……よく知る女だった。
なのに。知らない戦場、知らない顔。凍てつく表情に胸が痛む。
どうしてそんな場所にいるんだと問いかけようとしたところで。世界は暗転した。
はっと目を覚ますと、周囲はすっかり暗くなっていた。時計に目をやれば最後の記憶よりもだいぶ針が進んでいる。明日のデートまでにと前倒しに仕事を進めたのはいいが、少し根を詰めすぎたらしい。
「中尉か……」
背にぬくもりを感じ手をやれば、毛布がかかっている。さりげない優しさが嬉しく、愛しさは募るばかりだ。明日はまだ初デートだからあまり踏み込むまいと自戒しているが、そんなもの脆くも崩れ去りそうで。ロイは薄弱な自身の意志に苦笑した。
「さあ、あと少しだ」
ぐんと身体を伸ばして目を覚まし、毛布はありがたくそのまま膝上にかけた。ペンを握り直しデスクに置かれた書類にサインをしようとして、ふとロイの手は止まる。
「……なんだ?」
書類の、右下。サインをするために設けられた空白に何か書かれていた。タイプされたものではない、ペンで書かれた…肉筆だ。
「事務方のミスか?」
不審に思いながらロイはその文字列を眼球に映した。それから息を飲む。
だめ やめろ いくな
文章にもなっていない、シンプルな単語の羅列。
「これは……なんだ?」
疑問が言葉となってこぼれ落ちる。本来なら誰かの悪戯か単なるミスだと気にもとめなかったろう。新しい書類を作成させるか修正するか、迷うだけだ。しかしロイには見過ごせぬ理由があった。
「私の……筆跡だ…」
癖の強い独特の……自分の書き癖。見覚えのあり過ぎるそれを間違えるはずもない。更に言えば万年筆も同種のもの。
「寝ぼけ…た、のか……?」
お花畑を書くならともかく、何故こんな意味不明の言葉を書き連ねたのか分からない。分からないことが不気味で、気持ち悪かった。
「まあいい」
こんなつまらないことで楽しみに水をさしたくない。そう思い直して、ロイは無視することにする。書類は後で作り直せばいい。
リザとのデートのために仕事する時間を一秒でも無駄にしたくない。時間は有限であり、過ぎ去った時は取り戻すことは出来ないのだから。
「さ、やるか」
改めて腕まくりをし、書類に取りかかった。
しかし、この出来事はほんの小さな小さな棘ではあったけれど、ロイの身に確実に深く刺さっていた。
「少し早すぎたか……」
時計を確認すれば、約束の時間よりもかなり前に待ち合わせ場所に着いてしまったようだった。浮かれる自分も恥ずかしいが、遅刻よりはるかにましだと開き直る。綺麗になったリザを待たせて、悪い虫にナンパでもされようものなら目も当てられない。
観劇の後食事の約束をした。はりきってセッティングしたのはプラチナチケットと滅多に予約がとれないレストラン。
どんな服を着ていけば良いのか分からないと正直に打ち明け相談してきた彼女に、見立てた服を送りつけた。多少露出が多い服だったと反省はしたが、後悔はしていない。あれは絶対リザに似合う。
リザも服の代金を払うあんな高級な服似合わないなどと、不満を申し立てていたが、着て欲しいと真摯に頼めばしぶしぶ了承してくれた。
「やはり、迎えに行けば良かったな……」
本当は車を回し自宅にまで行きたかったが、リザが嫌だと言って聞き入れてくれなかったのだ。流石に上司を運転手代わりには出来ないらしく、逆に気を遣うと主張された。履き慣れない靴もプレゼントしたことだしロイはまったくかまわなかったのだが、ヒールが高いうんぬんを口に出せばますます頑固に断られてしまった。
それくらいで歩けなくなると思われたのでは女の矜持の問題らしい。それにとリザは付け加えた。
「デートの待ち合わせというものを……してみたいんです」
なんてかわいいことを言われては、ロイも引き下がるしかない。大人しくリザが来るのを、約束の場所で待っていることにした。
落ち着かないけれどふわふわした夢心地の気分を味わいながら、ロイは街中に立つ。時刻はもう夕刻、人通りや交通量が多くなりシティは賑わいを見せている。
流れゆくそれらを見つめながら、ロイはふと謎の文字のことを思い出していた。
だめ やめろ いくな
あれはどういう意味だったのだろうか。
何故こんな大事な時に考えてしまうのか不思議だったが、実を言うとあれからずっとあの言葉は心にへばりついて離れていなかった。
(誰かが私の所に持って来る前に、あの書類をメモ代わりに使っただけだ)
それだけのことだと自分に言い聞かせるも、ならば何故筆跡が己のものだったのかが説明が付かない。寝ぼけて書いたのが一番濃厚な線だが、それにしては内容が物騒な気がした。
(誰に向けての……いや、そもそも何のことだ?)
意味が分からないものにほど人は理由を付けたがる……自身を安心させるために。適当なそれらしいもので良いから、ロイもあの文字の存在に何か理由が欲しかった。
だがどうしても自らの筆跡が引っかかって、思考が前に進まない。
(誰かが私の文字を真似て悪戯で書いた……いや、それなら分からないはずがない。他ならぬ自分の文字だぞ。分からなかったとしたら……)
一人だけ自身の筆跡を完璧にコピー出来る人物をロイは知っていた。だが、それはないと断言出来る。
「中尉がそんなことをする理由がないだろうが」
いつどこで身に付けたスキルか謎だが、リザはロイの筆跡を扱える。初めて見たときはロイですら見分けが付かず驚いた。自分にもしものことがあった時、サインを代筆出来るようにらしい。彼女の副官魂には頭が下がる思いだ。
「気にすることは、ない、か……」
深く考えても答えは出ない。それよりも今夜のデートのことだと気を取り直し、ロイは再び時計を確認する。いつの間にか時が経っていたようで待ち合わせ時刻を過ぎていた。太陽の残照が消え去り、街には薄暗い夕闇が落ちている。
(遅いな……)
女性の支度には時間がかかるもの。多少の遅刻など問題ない――と、普段の情報収集用のデートならばロイは気にしなかったろう。だが相手はリザだ。日頃の彼女の態度からして、時間厳守は当たり前。自分を待たせるような女性とは思えない。
何か想定外のことが起きて遅れているのだろう。そう思い、もう少しだけ待つがやはりリザは現れない。
――胸騒ぎがした。
それは昨日の、あの不審な文字を発見した時から続いている感覚。放っておいてはいけないような取り返しのつかないことが起こっているような……じりじりとした嫌な予感だ。
とうとう居ても立ってもいられなくなり、ロイは待ち合わせ場所からリザの自宅方面へと足早に歩き出した。気のせいならばいい。途中でリザに出くわして、何だバカだなと自分の心配性を笑えればいい。
「くそっ……」
だが願いとは裏腹になかなかリザに会わない。歩を進める度に膨れ上がる不安が、最高潮となったときのことだった。
「大佐!」
前方から小走りでやって来る女性を目にして、ロイは心の底から安堵した。全身から力が抜けてその場にヘタリ込んでしまいそうだった。
ほらやっぱりただの杞憂だった。リザは無事だ。高いヒールのせいで急げないらしく足取りは辿々しいが、すまなそうな顔をして必死に手を振る姿は普段の彼女とのギャップもあってとても可愛らしかった。
ロイも笑いながら手を上げ彼女を迎えようとした。二人の距離はもう後数歩ほど。
――瞬間、リザの顔が凍り付いた。
何が起こったのか分からなかった。音が消え、その数秒だけ世界の全てがゆっくりと動いて見えた。
まるで自分の胸の中に飛び込んで来るように、リザが跳ねた。何、と認識する間もなく衝撃を受け、ロイは後方に突き飛ばされていた。強かに腰と尻を打ち、痛みを何とかやり過ごし――次の瞬間見たのは、歩道に突っ込んできた車と……ぐったりと地に伏す女。
「…………!!」
声にならぬ悲鳴を上げ駆け寄った。止まっていた時が動き出したように、周囲から悲鳴が上がった。
車が突然……誰か救護車を……女の人が……血が出てる…助けを…医者は……死んじゃう……。
(バカな!!)
「中尉、中尉、中尉、中尉、中尉、中尉、中尉、ちゅうい、ちゅうい……リザ!!」
ざわつく人だかりを引き裂くように、ロイは声の限りに絶叫した。抱き起こした手にぬるりと赤い液体が付着する。その絶望的な量。にわかに息が苦しくなった。まるで呼吸の仕方を忘れたかのように、喘ぎ酸素を求めた。
血の気が引いた白い肌、乱れた金色の髪、力なく垂れる四肢。
贈った黒のドレスは薄汚れ、コートの白いファーは血に染まっていた。靴は片方脱げ落ちて、見当たらない。
「リザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザ!! 返事をしろ……!!」
我を忘れて呼びかければ、うっすらと彼女は目を開けた。焦点を結ばぬそれでロイを見上げ、手を伸ばし、唇から儚げな声がこぼれ落ちる。
「たい、さ……ごぶ、じで……す、か……」
「君は! 自分の心配をしろ!!」
「よかっ……た……」
言葉が終わると同時に腕からだらりと力が抜け、落ちた。
「リザぁぁぁぁぁぁ!! 許さん…許さんぞ……!! 私を置いていくなど!!」
傷口を押さえ血止めし、気道を確保。知りうる限りの救命措置を施す。
「くそっっっっっ! 早く……救護車はまだか……!!」
諦めたくない。彼女を諦めることなど出来ない。しかし、心に絶望が浸食していくのを止められない。
ロイも軍人だ。今まで何人もの怪我人や死者を目にしてきた。まして錬金術師である彼には、多少の医療知識もある。
その全ての苦い経験と知識が、ロイに残酷な結論を突きつける。
――もう、間に合わない。
リザの白い肌はより一層白く……いや青くなっている。唇の端からしたたり落ちた真っ赤な血との凄惨なコントラストに、怖気立った。生気に満ちた、バラ色に頬を染めていた彼女はもうどこにもいなかった。美しさは少しも損なわれていないのに、ロイは悟らざるをえなかった。
リザ・ホークアイは失われてしまったのだと。
夢を見ていた。
金の髪の知らない少年に、優しい微笑みで接する彼女。嫉妬心が擽られ誰だそれはとすぐにでも問いつめたかったが、声は届かない。ああそうだ、夢なら当たり前かと思い直す。
司令部で軍務に励む彼女。凛とした瞳、機敏な動作、的確な指示。そして時折見せるリラックスした表情……生き生きと動く姿を見れば、瞳は熱を持つ。鼻の奥がつんとなる涙の気配。
夢なのに泣くなんて変だなといつも思う。ああ、これが夢でしかないからだ、ともいつもすぐに気づく。
……目覚めれば埋めようの無い喪失が待っているから。
あれから何日経ったのか、ロイは正確には把握していなかった。一日のような気もするし二・三日のような気もする。いや、実際にはもう一週間以上は過ぎているはずだ。
寝て起きて食事をし、仕事に行き帰ってはまた寝る。いつも通りの生活を機械的に繰り返しながらも、ロイはそれ以外の全ての時間をつぎ込んで錬金術に没頭していた。
生命、魂、精神……人体錬成…死者の錬成。
禁断の領域へと手を伸ばすべくあらゆる書を読みあさり、紙に壁に床にと計算式を書き殴った。時折部下や親友が訪ねて来ることもあった。彼らは皆一様にロイを心配していた。
特に親友は危うげなロイの様子を見て、仕事が忙しいのにも関わらず何日か部屋に泊まっていった。
そのあらゆることがロイには別世界に感じられた。ちゃんと話をしているのに、食事だってしているのに、記憶はロイの体に蓄積されずただ通り過ぎていくだけ。内容は覚えていないし、食べ物は味がしなかった。
まるで、白黒の世界へと迷い込んでしまったかのように全てが味気ない。
ロイにとっての唯一の色鮮やかさは、リザだった。彼女を思っている時だけは日の光の白さも、風の温度も、空気の匂いも、食事の味も思い出すことが出来た。
リザ・ホークアイ中尉は事故で死んだ。歩道に突っ込んで来た車からロイを庇って。
「リザぁぁぁぁぁぁぁ!!」
運び込まれた病院ではっきりとその事実を告げられた時の慟哭は、ロイにとってはつい先ほどのことのようだった。永遠に目を閉じて動かない愛しい女性。彼女に縋ったとき、ロイは思った。こんなことは絶対に認められないと。
葬儀を執り行い、埋葬も済ませた。彼女の部屋や所持品については、ロイに一任された。軍人なら必ず書いておくべき遺言に、そう記載があったからだ。ロイは食べ物などを除いては一切手を付けず、そのままの状態を維持した。
そうして表向きは淡々と日常をこなしながらも、裏で研究に明け暮れていた。誰かに見つかったら咎められるだろうと、訪問者がある時は隠し密やかに研究を続けた。
そんな日々を過ごしていたとき、ロイの元へと意外な者たちがやって来た。
「……よぉ」
「こ、こんにちは、お久しぶりです、大佐」
「君たちは……」
大きな鎧姿と小さな体躯の兄弟。エルリック兄弟と呼ばれる、錬金術師たちだ。常日頃は司令部で会うことはあっても部屋にやって来ることなどない。彼らが来た理由など一つだろう。
「入りたまえ」
部屋に招いて茶を淹れた。一人は飲めないが、きちんと二人分置いてやる。それは司令部においてリザが必ずしていたことだった。
「話、聞いたよ……中尉が…その…」
言いづらそうに切り出した兄――エドワードに、ロイは苦笑した。
「言いよどむなんて、君らしくないな」
「俺だって気くらい遣うっての。だって……なあ?」
「うん、その……中尉のこと……本当に僕らも悲しくて……」
肩を落としたアルフォンスは、ロイが淹れた茶を手に持つ。
「中尉……いつも二人分、僕らのお茶を淹れてくれて……」
「優しかったよなあ……」
クールで表面上は素っ気ない彼女は誤解を受けることも多々あった。男社会の軍にあって対等でいるためには強い女で在らねばならなかったのだろうが……それでいて、自然体では子供や動物に優しい女性だった。エルリック兄弟はそんな彼女を慕っていて、いつも明るく前向きに目的のために旅を続けている彼らも、ずいぶんと気落ちしている。
彼女のために悲しんでくれる者がいることが、ロイにとっては慰めであり、励みになった。禁忌を犯し彼女を蘇らせんとすることを、肯定して貰えた気になったから。
「……君たちは、人体錬成は成功すると思うか?」
だからロイはあえて尋ねた。彼ら二人を歓迎するように部屋に入れたのは、大部分はこの理由からだ。幼くして母親を錬成しようとした天才たち。彼らの助けがあれば、リザも生き返らせることが出来るかもしれない。
「それを俺たちに聞くのか」
「……大佐、まさかやっぱり」
エドワードの剣呑な声とアルフォンスの落胆した声。両方を受け止め、ロイは頷いた。彼らには隠すつもりはなかった。
「……出来ないものかと模索している」
「なら俺らに言えることは一つだ。やめとけ」
「うん。僕らを見れば分かるでしょう?」
兄弟はにべもなかった。悲しげに首を振るばかりだ。だがロイは諦めない。
「頼む。何でもいい、君らの知恵を分けてくれないか」
「……こんなことじゃないかと思って、来てみたんだけどな」
「やっぱり来て良かったね、兄さん」
ふうっと二人は重いため息を吐き出して、ロイに告げる。
「俺らは二人いた。二人いても、成功しなかった。全部と……体を持っていかれた。それが全てだ」
「僕らには協力は出来ない」
「死者は生き返らないと?」
「俺らはまだその結論には至っていない。だから、言い切ることも出来ないが、この体になった今でこそ言える。生き返らせてはいけないんだ」
この話は終わりだと言わんばかりに、エドワードが立ち上がる。慌てたようにアルフォンスも続いた。
「私を……愚かだと思うかね? この世の真理に逆らい見苦しくあがく私を」
「思わねーよ。ただ確実に溺れると分かってるやつが泥河に飛び込もうとしてたら、止めるだろ。……溺れた経験があるやつだったらよ」
じゃあなとエドワードは背中を向け去っていく。ぺこりと頭を下げて、アルフォンスも出ていった。
「泥の河か……」
兄弟から助言を得ることは失敗し、思った通り逆に諫められた。おそらく彼らはそのために、ロイを心配しわざわざ家に押し掛けてきたのだろう。もしや、親友や部下たちから何か聞いたのかもしれない。
「本当に生き返らせられるなんて、思っていない……ただ生き返る、かも、しれない。それでいいんだ……そんな一縷の希望に縋らなければ……私は……」
壊れそうになる自身を支えられず、くずおれてしまうだろう。
「くそっっっっっ!!」
苛立ちに任せて、茶器をテーブルから払い落とした。泣けない己の代わりに床を濡らす液体を見つめて、頭を掻きむしる。
ロイはリザが死んでから、泣いていない。声を枯らして叫んでも、涙は一滴も流していない。
リザがいなければ、ロイは泣くことも出来ない。
夢を見ていた。
最近彼女はよく知らない場所にいて、知らない相手と話していることが多い。重要な仕事を任されているのか、表情は固く冴えない。それでも生きて呼吸をしている彼女を見ているのは、たまらなく幸福感をもたらした。失ってしまったのに、何故夢の中の彼女はあんなにも変わらないのだろう。
取り戻すためになら、自分は。
今が昼なのか夜なのかもついに分からなくなった。かろうじて仕事には行っているが、もう見かけを取り繕う余裕さえなくなった。無精髭だらけのボサボサ頭で勤務するロイに、部下たちはひたすら心配を口にした。
司令部と家を往復するだけの毎日。後は錬金術に埋没した。それでも目指す結果は得られそうになかった。
あの兄弟は母親を作ることは出来ず、代償に身体の一部と全部を失った。ロイはこの身全てを持っていかれて、リザを取り戻す気はない。個を保てるなら幾らでもくれてやるが、自分が居なくなってしまえばリザが戻っても意味はない。彼女を抱きしめてやる腕を、その意志を失う訳にはいかないのだ。
「……答えはどこにある?」
壁と床、そして散らばる紙束を眺め回し自問する。理論は詰めた。だが、成功するという確信にはついぞ至っていない。それどころか逆に己の言葉を強化する結果となっていた。つまり。
――死者は生き返らない。
研究すればするほど追い求めれば求めるほど、残酷な結論へと帰結していく。
何度何度何度何度何度何度何度何度、計算しても答えは変わらない。リザは生き返らない生き返らない生き返らない。
「死者は……生き返らない」
認めれば絶望のままこの先の人生を送らねばならぬ。それは絶対に我慢出来ない。嫌だ。
「私は……弱い、な……」
この世に愛しい人を失ってもなお生き続けている人間が、どれほどいることか。彼らはこの苦しみに耐えているのだ。
「はははっ…わたしは……だれより……おろかだ……リザ………」
膝から力が抜け、身を床に投げ出した。計算式と錬成陣に埋め尽くされた大量の紙の上に大の字になって、天井を仰ぐ。
「君がいないから……私はまたこんなにも自堕落でどうしようもない生活を送っているんだ……早く…帰ってきて…私を叱ってくれよ……」
お風呂に入れ、食事を取れ、ちゃんと寝ろ、部屋は散らかさないできちんと整理整頓すること。彼女が少女の頃からさんざん言われ続けてきた小言が、狂おしいほどに懐かしい。
「君を諦めることなんて……出来ない……」
見苦しいあがきを続けるためにごろりと体を横にして起き上がろうとすれば、机の脚に当たってしまった。上に重ねて乗せていた紙の束がばさばさと崩れ落ちてくる。何をドジなことをしているんだと己を嘲笑っていた時、それをロイの目は捉えていた。
「ん?」
半分記憶が飛んでいる生活をしているが、それは日常においてのみだ。錬金術に関係する記憶は絶対に忘れていない。ロイは自分が何をどう思考し書き連ねたのか、一言一句覚えている。
「これは……」
宙を舞っていた白い紙切れ一枚を、掴み取る。
死者は生き返らない。という一文が何重にも丸で囲われ、大きなハテナマークが付されている。ロイ自らエルリック兄弟の訪問後、自棄になって書き殴ったものだ。そのすぐ下に、綴った覚えのない文字列が存在していた。
ならば しなせなければ いい
不審に思うよりも先にカッとなった。
「それが出来たら……とっくにやってる!!」
(誰だこんな人の神経を逆撫ですることを書いたやつは!……私…か?)
紙を破かんばかりに握りしめ、ロイは苛立たしく文字を睨みつけた。また自分と同じ筆跡。明らかにデート前日に見た文字と同種と思われた。
(また夢遊病者のように知らない間にくだらない文字を書いたというのか?)
「冗談じゃない、勘弁してくれ……!」
思わず吐き捨てた瞬間、ロイはぴたりと制止した。きっかり五秒。無視できない直感と何か重要なことを見落としている、焦りにも似た感覚。ゆっくりゆっくり過去の記憶をたぐり寄せた。
だめ やめろ いくな
あの時は何のことか分からず無視していた単語の羅列が、今思い返してみれば重大過ぎる意味を持ってロイに迫ってきた。
「けい……こく…警告だったのか……?」
リザの事故を予言していた警告。何をバカなとは思うが、一度浮かんだ閃きは容易には消えてくれなかった。
「まさか、そんな……ありえない。予言、だと?」
未来を知る何者かが己に発した警告。
バカげた妄想に取り付かれた気分だったが、何度考え直してもそうとしか思えなくなってくる。
(ならば……だとしたら、他にも……?)
気づいていないだけで存在しているのかもしれない。
小さな小さな希望への糸口を掴まんと、すぐさま床に散らばった紙束を一枚一枚精査する。辿った糸の先にあるのは更なる絶望かもしれないが、何もせずじっとしていることなど出来ない。
紙だけでなく、床、壁、あらゆる場所にも目を凝らす。
書いた覚えのない文字はないか。自分の目を盗み、密やかに書かれたそれを見つけ出せ。絶対に…見逃すな。
「あった!」
最後は這いつくばって探し、床の端に記憶にない文字を見つけた。
さがす あおい ほん
「なんだと?」
早速意味が分からず、ロイは困惑した。
「何故いつもこんな単語だけなんだ!」
苛立ちつつ他にも手がかりがないか見渡す。
「探すって……青い本をか? 青い本とはなんだ。それだけで分かるか!」
わけの分からない疑問を吐き出しながら再び探せば、案外近くに続きは落ちていた。
いほん
おそらくは床の文字の続きとして散らばっていた紙の上に書かれていたのだろう。紙が動いてしまったため、離れた場所にあったのだ。
「いほん……遺本?…だと?」
すぐに思い浮かんだのはリザのことだ。彼女が遺した物の中にあるというのだろうか。
(……これは救いの手だろうか? 信じていいのか?)
手をさしのべているのは救いの神かそれとも悪魔か。
錬金術師は神に祈らない。だが、リザを取り戻してくれるというなら、それがロイの神だ。そこに道があるのなら、進むしかない。
取るものとりあえず、ロイは部屋を飛び出した。
イーストシティでのリザの住まいは、ごく普通の単身者用賃貸アパートだ。彼女の死後全ての管理を任されたロイは、現状の保持を望んだ。彼女が生きていた痕跡を消すことは出来なかった。アパートの所有者に話をつけ、向こう数年分の家賃を前払いした。部屋の中にも極力触れず、食料品の処分だけにとどめた。
尽力の甲斐あり部屋主がいなくなって十日は経とうというのに、驚くほど部屋は変わっていなかった。施錠を解き、中に入ればそれがよく分かる。葬儀の後訪れたときのままだ。
洗面台の前、テーブルの上、キッチン、寝室のベッドの上。
デート当日の、彼女が身支度を整えていたとおぼしき慌ただしさがそのまま残されていた。
自分とデートするために彼女は着替え、化粧をしヘアスタイルを整えていたのだ。胸奥で狂おしいほどの激情がうずまいた。叫び出したくなる衝動をこらえ、ロイは無言で本棚の前に立った。
ざっと目を通せば、銃器や軍事関係の本ばかりが目立つ。いかにも彼女らしい本のラインナップだ。その他料理やファッション、手芸と言った女性らしさが垣間見える本も少数置いてあったが、ロイの目的のものは見つけられなかった。
「青い本なんてないじゃないか……」
そもそも青い本とはなんだ? とロイはまた同じ疑問へと戻ってしまった。単純に装丁が青色な本と捉えたが、あまりにも漠然とし過ぎている。題名すら分からなくては偶然に青い表紙の本が複数あった場合はどうするのか。
「とにかく、遺本、だ」
外見ではなく中身が青い、もしくはそういう内容の本かもしれないとも考え片っ端から内容を改めていくことにした。
適当に本棚から抜き出してぱらぱらぱらとページをめくっていく。同じ作業を行って数冊目、ロイは本の間に挟まれていた写真を発見した。
「青……とは関係なさそうだな」
苦笑しながら写真を手に取った。リザの父親――ロイの錬金術の師匠とロイとリザの三人で撮った写真。幽霊よりも不気味な雰囲気の師匠とひきつり笑顔のロイと、そして嬉しそうに微笑むリザと。
「懐かしいな……」
どういう経緯で撮ったのかよく覚えているし、ロイも同じ写真を持っていた。写真嫌い故不機嫌だった師匠も彼が怖くてびくびくしていたロイも、リザのためにと写真を撮ったおかしくも幸せな日々。
「ん?」
家族写真とも言うべき思い出のそれに、ぴったりくっつくようにしてもう一枚写真が隠れているのを発見する。本に挟まれていたせいで圧着していたようだ。
「これ、は……」
見た瞬間胸奥がぎゅうっと締め付けられて、ロイは呼吸の仕方を忘れた。リザを失ってから何度も経験している感覚だ。ギリギリと強く奥歯を噛みしめ、ロイは声を絞り出した。
「あんなに可愛くないこと言って、あれだけ私を袖にしておいて……これはなんだ、リザ……」
思わず毒づく。
それは軍服姿の自分の写真だった。こんなものを隠し持っているなんて聞いてない。つれなかった女の想いの欠片に胸が熱くなった。
(…………絶対に取り戻す)
そして強くこの腕で抱いてやる。リザが嫌がろうとも離してやるものか。
意志を新たにし、作業を続け本棚を全て探し終えた。
「何もない…か……」
青い本の手がかりはなく、ロイはふーっと深く息を吐き出した。見つけたのは、リザが隠し持っていたらしい写真たちだけ。どちらも外に出し飾ってもいなかったのは、誰かに見られたら困ると思ったからだろうか。何となく、発見した二枚の写真に目を落とした。いつ撮られたのかよく分からない軍服姿の自分と……思い出深い昔の写真。師匠もまだ元気そうで……。
「……そうか。本はこれだけじゃない」
師匠の顔を見ていたら、ふと思いついた。いほん、とはリザの遺本だけではない。もっと沢山自分の知りうる遺本は存在しているではないか。
その一部をロイは既にリザから譲り受けている。
(師匠の遺した蔵書がある)
それも膨大な数が。
錬金術師として最上級の知識と技を持っていたベルトルド・ホークアイは、古今東西の錬金術書を所有していた。彼亡き後、遺本は全てリザが受け継ぎ弟子であったロイへと処遇が一任された。数が多かったため目を通しきれておらず、主要なもの以外は然るべき場所に保管されている。いずれは図書館に寄贈するか古本として処分するか自ら管理するかしようと思っていたが、中々本を整理するまとまった時間がとれずそのままになっていた。
(確か……)
保管場所はイーストシティ内に借りた部屋の一室。部屋はロイが借り、管理はリザに任せていた。整理整頓は苦手分野だったからだ。彼女は少女の頃からまるで司書のように、本に秩序を与え分類するのが得意だった。
(リザ……待っていろ…必ず君を……)
何があっても、抱きしめてやるから。
かくして、青い本はあっさりと発見される。師匠の遺本として保管部屋の奥深くに眠っていた。本当なら探すだけで何日もかかったろうが、リザの管理のおかげで本は整然と並べられており苦労することもなくロイは青い本を手にした。
最初に見たとき、なるほどと思った。青い本、という情報だけで探せるものかという心配もすぐに杞憂だと気づいた。一目で分かる鮮やかなブルーの表紙と……何の題名もない本。青っぽいと思われる本は幾つもあったが、青い本としか表現しようのない本はこれ一冊だけだった。
(タイトルも著者名もない……出版元も分からない…)
遺本というより異本だな、と思う。まるで異次元から現れたかのような異質な存在感を放ち、この世に一冊しかないのではないかと錯覚する。
「さあ見つけたぞ。これが一体何だと言うんだ……?」
虚空に問いかけても、もちろん返事はない。この本を探せと命じた誰かさんにすぐにでも教えて貰いたかったが、相手は相当な恥ずかしがり屋らしい。今まで一度も姿を現さない。
(……まあいい。その問題は置いておく)
ロイは青い本を開いた。これを読む方が先だろう。
ベルトルドの蔵書は弟子時代それなりに読ませて貰ったが、この本は見たことも聞いたこともない。師匠は必要だと判断すれば必ずロイによこしたから、これは選ばれなかったということになる。
(そんな本に……リザを取り戻す術があるのか?)
半信半疑で読み進めていくうちに、ロイはだんだんと前のめりになっていった。読むことを止められない。
(なんだこれは…………なんだこれは……なんだこれは!!)
内容は端的に言って、複雑怪奇、奇々怪々、奇想天外、空前絶後。大半の錬金術師が笑い捨てるだろうとんでもない理論が展開されている。時間、空間、あらゆる固定概念を覆し求める世界を引き寄せるための、ある意味生命の創造よりも禁忌の領域に近い錬金術。
まだ半分……いや三分の一も読み進めていないのに、理解が追いつかずロイは最初から何度も何度も読み返すはめになった。
国家錬金術師でもあり、それなりに優秀な頭脳だと自負しているロイでも困難を極める超理論。脳がオーバーヒートし知恵熱を出してしまいそうだ。
「……だが、すごい」
本当に優秀な錬金術師であるからこそ、ロイは肌で感じ取る。これがどれほどとんでもない錬金術をこの世界に現出させようとしている本なのかを。
リザを取り戻す。
人体錬成を研究し、ロイがついに至れなかったたった一つの確信。……この本ならば成せるかもしれない。
ロイはまた寝食を忘れて本に没頭していった。
リザを失って以来休むことだけはしなかった仕事を初めて放り出した。限界まで休暇申請をし、図書館から考えうる限りの参考資料と本を借り受け、食料を買い込み、家にこもった。
それから再びロイの戦いが始まった。
青い本に書かれている錬金術を実現させるために計算式を練る。それは何百、何千、いや、何万、何億……那由多に至る演算。そこから錬成式を何重にも組み合わせ、糸をよりあわせるように錬成陣を組み上げていく。
それは砂漠で砂粒のような宝石を拾うよりも困難で、数千メートル上空から糸を垂らし地上の針の穴に通すよりも繊細精緻を極める作業だった。
だが、青い本が導いてくれた。心がへし折れそうになれば脳裏に浮かぶリザの顔が支えてくれる。
そして、例の文字だ。
躓きそうになったり行き詰まったりすると、知らない間に書かれる文字が的確な指摘をくれた。まるでロイと一緒に青い本を読み研究しているかのように、難解な部分を読み解くヒントを絶妙なタイミングでよこす。おかげでロイが追い求めるリザを取り戻すための錬金術は、驚くべき早さで完成された。もしも自らの力のみで同じ研究をしたなら、何年かかったか分からない。
「これで……どうだ……」
全身全霊をかけた研究を完結させ、四肢をだらりと床の上に投げ出した。ろくに睡眠も食事もとっていないというのに不思議と疲れはなかった。あるのはやり遂げたという達成感と高揚感。それからほんの少しの希望。ようやく一筋の光が見えた気がした。
ロイは組み上げた理論を元に円と複雑な文様を組み合わせ、錬成陣を描く。自室の床いっぱいに幾何学模様に似た線が踊る。流麗でいて簡潔さと力強さを兼ね備えた、世界を超える――時を跳ぶ錬成陣。
時間遡行。
青い本にはSF小説の中にしか存在しないはずの言葉が、実現可能な錬金術として当たり前のように在った。物理法則をねじ曲げて、時を遡る――夢のような話だがロイは完成させた……はずだ。
それから錬金術を用いて、手の甲に特殊な入れ墨のような錬成陣を焼き付けた。
「よし」
全ての準備を整えて、錬成陣の中央へと立った。
リスクがない訳ではない。むしろリスクしかない。実験などしている余裕はなく、ぶっつけ本番で試す。禁忌を侵そうとしているのかもしれない。だが、止める気はさらさらない。
片膝をつき、円の中心に手を置いた。時を超えるための複雑な錬成式には既に時間と場所座標を固定してある。計算が正しければリザが死んだ日の前日、つまりデート前日の司令部に跳ぶはずだった。ロイが会得した技術ではギリギリそこまでしか遡れなかった。
時と空間を超えてリザを救うために、ロイは静かに錬成陣を発動させる。
(リザ……待っていてくれ)
白く眩い錬成光に包まれたその瞬間、彼の存在は世界から消えた。
天地も前後も分からずただ空間を自由落下する。いや、もしかしたらすごいスピードで浮上しているのかもしれないし、ただ止まっているのかもしれない。
目に映るのは鮮やかなブルー。これは地球の…世界の色なのだろうか。美しいとすら思える時空間――世界の狭間をロイは回遊する。周囲には映画フィルムのような画像の連なりが螺旋状により合わさって、無限に続いていた。
いつか見た懐かしい風景のような、見たこともないような。
ロイは手を伸ばす。目指す場所にたどり着くために。右手には場所、左手には時間の座標を刻み込んでいる。
神に祈りを捧げるように両手を合わせ前方に大きく突き出した瞬間、世界は青から虹色に輝いた。大きなシャボン玉のような球状の膜に囲まれ、やがてそれはだんだんと小さくなる。例えるなら狭く小さな小さな穴を無理矢理折り畳まれて通されるような、圧迫感と窮屈さ。全身がきしみ悲鳴を上げたが、痛みを感じる間もなく……唐突に覚醒した。
「大佐。お眠りになるなら、仮眠室でどうぞ」
瞬間、ロイが聞いたのは忘れるはずもない愛しい女の声だった。はっと顔を上げれば、すぐそばに呆れ顔のリザが立っていた。光を弾く金色の髪も白い頬も薄桃の唇も、彼女を形作る全ては生気に満ちて翳りはない。
「リ、ザ……?」
会いたくて会いたくてたまらなかった女。二度と目にすることはないと一度は絶望した姿。一瞬ロイは我を忘れた。
「リ…ザ……? リザ……リザ…リザ! リザリザリザ……! リザぁぁぁぁぁ!!」
「きゃっ」
椅子を蹴倒して立ち上がり、目の前の女に縋りついた。